障がいをもつ両親のもとに生まれ、小さいころからプレッシャーに耐えながらもヤングケアラーの人生を歩んできた高橋美江さん。
「思春期の頃は、親への偏見によるいじめ、周囲からの過剰な道徳感の押しつけもあり、生きることさえやめたくなった」と高橋さん。そんな高橋さんを救ったのは、本の世界と臨床心理士の一言でした。
ヤングケアラーの問題が注目される中、ヤングケアラー当事者の立場で声を発する高橋さんにインタビューを敢行。前編と後編に分けてお届けします。
前編ではヤングケアラー当事者の壮絶な体験、そして周囲の大人はヤングケアラーの子どもたちにどんな支援ができるのか、お聞きしました。
生まれながらに背負わされるヤングケアラーの責任
――ご両親が障がい者ということで「ヤングケアラーであった」とプロフィールにありますが、どんな子ども時代を過ごされたのでしょうか?
高橋 聴覚障がいの父と、片目を失った母の間に生まれ、小さい頃から自分のことは自分でするように育てられました。時々親が入院することもあり、周囲からは「あんたがしっかりしなあかんよ」とプレッシャーをかけられてきました。
――小さいころからご両親に気遣わなければならない環境は、とても過酷だったのではないでしょうか?
高橋 物心ついた頃には、それが当たり前だったので、苦に感じるとかはなかったですね。母は自分が興味のあることしかしないタイプで、私の身の回りのことは父が手助けしてくれました。母は朝が苦手であまり朝食を作ってくれなかったので、何も食べずに学校に行くことが多かったです。また幼少期から歯のケアをしてもらえなかったのもあり、虫歯が多く、歯が痛かったなという記憶があります。
――子どもたちになかなかケアが行き届かないというのも、ヤングケアラーの問題なのではないでしょうか?
高橋 そうですね。親が子どもたちに細かな配慮が出来ないことや、一言でヤングケアラーと言っても結局、「色んな厄介さ」が絡まっていることも問題だと思います。例えば、要介護者はサポートを受けられても、介護者である子どもたちの困りごとは見落とされているように感じています。
私の場合は、母がネグレクトに近かったのかもしれません。小学校3年生の参観日、片目が義眼である母を見て、隣に座っていた男の子が「お前のお母さん変じゃない?」って言ったんです。私はそのとき初めて、親が障がいを持っていることは、他の家庭と違って特殊であるということを認識しました。それ以降、授業参観のお知らせの紙を渡さなくなりました。でも、たちまち母にそれがばれてしまって、「私たちみたいな親のことを恥ずかしいと思ってるんか」と責められました。私は子どもなりに親のことを守らなきゃいけないと思っていたので、母を傷つけたくないし、(同級生に)からかわれたことを言えなくて…ただ、泣くことしかできませんでした。
――子どもなりに辛い現実に直面した出来事だったのではないでしょうか。
高橋 はい。その頃は、他の家庭を羨ましく思うときもありました。親のケアをしなくて気楽だろうな、何も考えずに親に甘えられていいなぁとか。
父は聴覚障がい以外にてんかんも持っていて、自転車に乗っては、何度か交通事故に遭いました。その度に私は近所の人に預けられていたのですが、そこでも辛い出来事がありました。しかし、それも親に言えなかったですね。言ってしまったら、私を預ける場所がなくなるし、余計な心配や迷惑をかけてはいけないと思っていました。
――そこで周囲のだれかが困っている高橋さんに気づいて、ご両親に忠告していたら、事態もまた変わったかもしれませんね。
高橋 結局、周囲の人たちは障がい者である親を気遣って、「娘をちゃんとみてあげて」なんて言う人は誰もいませんでした。それより「あんたがしっかりしーやー」「親をみてあげんとね」と、健常者の私にいつも要求が来ました。
兄弟もいない私一人で両親を背負うことがプレッシャーになるなんて、誰も思っていなかったでしょうね。そう言われる度に「それは悪意なき善意の押し付けではないか」と思っていました。逆に「お父さんやお母さんはいつも優遇されていいなぁ」とすら思ったこともありました。
――よくヤングケアラー当事者の方々からも「誰にも打ち明けられなかった」という話を聞きます。
高橋 他人に言えないというのは、ヤングケアラーのみならず誰しもがある経験だと思います。家の中のことを他人に話すことは恥ずかしいというか、言ってはいけないような。そういうことは家の中で解決すべきという感じで。子どもは純粋だから、単純に親が困っていたら一生懸命に親の期待に応えるというか、親を助けなければいけない…そういう使命感は親が思う以上に子どもは強く持っていると思いますよ。
ストレスに蓋をして生きる日々、体が悲鳴を上げる
――最初から当たり前に問題を抱えている環境の中で、高橋さんはどのようにストレスと付き合って来られたのですか?
高橋 周囲からのプレッシャー、学校でのいじめ、近所の人との辛い出来事も、今思えば、とてもストレスを感じた日々でした。しかし当時の私は子どもだったので、それを理解し、改善したり、解決することはできませんでした。なので、そんな現実には蓋をして、いつも本の世界に逃げていました。
多感な思春期に入ってからは、わざわざ辛いことを思い出すことはせず、他のみんなと同じように振る舞いました。体の中に小さな自分がいて、「自分」という体を操縦して生活している感覚になる時がよくありましたね。それが私の生きる術だったんだと思います。
――しかし、いつかは耐えられなくなってしまうのではないでしょうか?
高橋 実は18才の時に、近所の人に預けられた時の辛い出来事がフラッシュバックして、過呼吸になったことがありました。母に相談しましたが、何一つ対処してもらえませんでした。
その後、過呼吸が度々起こるようになり、心療内科に行きました。先生からは「小さな頃からたくさんのストレスがあったんですね。しんどいと思うけれど病気ではないよ。」と言われました。それを聞いた私は、「今こそ、蓋をしてきた過去と向き合うときなのかも知れない」と感じました。
友達に相談しても「そんなことは忘れて前に進んだ方がいい」とか「親のことを悪く言わない方がいいんじゃない?」と言われ、誰にも共感してもらえない悩みを抱え、何度も死にたいと思いました。
それでも死ななかったのは、小さな頃からたくさん本を読んでいたからだと思います。登場人物に自分を重ね、様々な考え方や心情を知ることができました。「このまま死んだら自分があまりにも可哀想だ」と客観的に自分を見れたり、「誰かを愛したり、愛されてみたい」という気持ちも持てたからだと思います。
何かを捨てる勇気
――「このままでは死ねない」という思いがあったのでしょうか?
高橋 そうですね。死にたいと思う一方で、障がい者の親から生まれた五体満足な自分自身を大切にしたいという自己愛があったのだと思います。
あるとき、臨床心理士の方に「母と理解し合えないことや近所の人に預けられた時の辛い出来事のせいで、自分はきちんと人を愛し、これからの人生を真っすぐに生きていけるのか心配なので、気持ちの整理方法を教えてほしい」と相談したことがありました。
その方は「あなたは、お母さんを愛したくて悩んでいるんですよ。でも、悲しいことですが、お母さんは、子どもがそのまま大人になったような人だから、わがままに振舞って、あなたに愛させないようなことばかりします。だから、このままでは、お母さんを愛せないことで悩み続けてしまうでしょう。これからはお母さんを他人だと思って、捨てた方がいい」とおっしゃいました。
それを聞いたときは、本当に衝撃でした。今まで周囲から「親の面倒をみるのが当たり前」と刷り込まれていたので、専門家にそう言われて、心がどんなに軽くなったことか。そして、縛られていた道徳観から少し解放された気にもなりました。
私は、親からもらった愛情の何倍も親を愛してきたような気がします。こんな親でも愛することで、幾度となく折れそうになる自分の心の支えになっていたんだと思います。
――子どもたちは育つ環境を選べません。重たい荷物を背負っている子どもたちは、耐えながらも生活していると思います。「親を捨ててもいい」なんて言ってくれる人がいたことはとても救いになったのではないでしょうか?
高橋 そうですね。先ほどの話と同じような経験が、その後、父が事故で入院したときにもありました。それは、私が20代後半の時で、父は失明の危機にありました。精神科の看護師の方が患者家族の相談にのってくれる機会があり、私は心の内を吐露しました。
退院後の介護を重荷に感じていた私に、その看護師の方からも「親は捨ててもいいんだよ」と言ってもらえました。
帰りの車中で「今回のことも含め、私は今まで辛い経験をしてきて、とてもしんどい人生を歩んでいると思う」と母に伝えました。すると、母は「普通に生まれてきてるあんたは幸せやん。私の方が不幸やし。」と言いました。私は別に不幸自慢をしているわけでもないし、ただ母に母親として私の気持ちを汲み取ってもらいたかった、それだけでした。
だいぶ大人になってからですが、近所の人に預けられた時の辛い出来事について、両親とその家族との間で話し合いの場を設けた時がありました。ずっと見捨てられていた私の心が報われるかも知れないと期待をしていましたが、両親は、傷つけられている一人娘のことは無視して、近所付き合いを優先し、何ごともなかったことにしようとしました。
父や母とは、それ以降も心が交わることはありませんでした。とても受け入れ難い現実でしたが、親を捨てる踏ん切りがつくとともに、子どもの頃から洗脳のように擦り込まれた道徳観から、少しずつ解放されていくきっかけにもなりました。
九死に一生を得た出来事
――学生時代に大きな事故にあわれたとお聞きしましたが、そのことで心境の変化はありましたか?
高橋 高校3年生のとき、帰宅途中に自転車でこけて、くも膜下出血になりました。そのとき一緒にいた友達曰く、白目をむいて痙攣していたそうで、救急車で運ばれました。そのときの記憶はなく、気づけば病院のベッドの上でした。
数週間入院しましたが、そのときに「こんなにも簡単に人は死んでしまうかもしれない存在なんだ」と思いました。同時に「私は何のために生まれてきたのだろう」という疑問が生まれました。
「親のために生まれてきたのか」「自分を生きるために生まれてきたのか」。そのように葛藤する中で、「明日死ぬかもしれない、なら後悔したくない」という結論に達しました。後悔しない人生を歩んでいくために、もう少し自分に焦点を当てて生きていこうと思いましたね。
――1つの節目となったきっかけだったんですね。
高橋 そうですね。このような経験のある人とない人とでは生に対しての捉え方が違うような気がします。死生観というか。瀕死になった経験があると、命に限りがあると身をもって感じ、死と冷静に向き合えるようになると思います。
だから、いつ死が訪れてもいいように、後悔の少ないよう、やりたいことは先送りにせず、その時その時でやるようになりました。
――多感な時期から今のように昔のことを客観的に話せるようになるまで、かなり時間がかかったのではないでしょうか?
高橋 色んなことがありすぎたせいもあって、ものすごい時間と気力、労力を要しました。40歳を超え、この年になったからやっと答えが出たというか、腑に落ちるように物事を整理できた、そんな気がします。
――少しずつ思いを消化してきたという感じでしょうか?
高橋 そうですね。また、一つのきっかけとして、4年前に父が亡くなったんですが、その時、私の仕事が美容師だということで、看護師の方が「エンゼルケアを一緒にしませんか?」と言ってくれました。エンゼルケアというのは、亡くなった方の体をきれいにすることです。私は父の髪をきれいに洗って、軽くお化粧をしました。
そんな最期のお世話や、喪主として葬儀を執り行う中で、父の安らかな顔を見ていると、これまでのわだかまりも消散されていくような気がしました。
ヤングケアラー支援は「寄り添う」姿勢が必要
――ヤングケアラーに対して、周囲の大人はどんなことをしてあげたらいいのでしょうか?
高橋 以前どこかで読んだ「ヤングケアラー当事者に対するアンケート調査」に、『学校や大人に助けてほしいことは?』という質問があって、「特にない」という答えが一番多かったんです。私は、(その回答に)すごく共感しました。だって、1日だけ食事を作ってもらったり、何かを与えてもらっても、日々の生活は変わらない。それよりも、一番辛かったのは「誰にも頼れず孤独なこと」でした。私もそうだったんですが、誰にも言えない悩みを抱えている子どもって、友達も作りにくいんです。「こんな私に誰か気づいてほしい」とただ願っていました。
ですので、周囲の大人はヤングケアラーの子どもたちに対して、その子どもたちが話しやすい空気を作ってあげたり、「おはよう」「最近どう?」など挨拶や声掛けをして「あなたを気にかけているよ」という心がけを伝えることが大切だと思います。
――声掛けするだけでよいのでしょうか?私の近くにそのような子がいたら個人的に手伝ってあげたいという気持ちになります。
高橋 支援やサポートは100人いたら100通りの形が必要だと思います。
そもそも誰かに支援やサポートをする際には、「してあげる」という善意のおしつけではなく、向こうが心を開いてくれるまで待つ姿勢が大切です。童話「北風と太陽」の話でいうと、旅人が服を脱ぐまで照らし続けた太陽のような存在です。気長に声掛けしていると、子どもがふいに「相談してみたいな」と思える日が必ずやってきます。
――なかなか難しいですね。
高橋 そうですね。「待つ」というのは根気のいる話ですよね。ただ、最近、私は「ヤングケアラー」という言葉が出来たことに、少し嬉しくなりました。子どもの頃の「しんどかった状況」が社会的地位を得たような気持ちになりました。親の介護や小さい兄弟の世話をしなければならない子どもたちの存在が世間に知られるようになり、少しずつかも知れませんが支援の輪が広がっていることにとても期待しています。
複雑に絡まった問題を一つ一つ支援に繋げていける世の中になるように「ヤングケアラー」とは何かを知ってもらうことが第一歩だと考えています。
そして、私が何よりもヤングケアラーの子どもたちに伝えたいことは、「ただただ諦めずに踏ん張って今を生きてほしい」という心からの応援と、「その後、大人になることで自分の思い描く日々を送れるようになる」という絶対的な希望です。
――高橋さんの周りで、ヤングケアラーの支援は始まっていますか?
高橋 私は、子どもだけでなく誰もがいつでも気軽に立ち寄れて、リラックスできる場所を作りたいと思っています。そして、いつか子ども食堂をできるようにと、先日、美容室を改装しました。私もそうでしたが、何らかのしんどさを抱えている子どもたちは、特に臆病です。「この大人は本当に信じられるのか」と猜疑心もあります。だから、「困っていることない?」「手伝おうか」と直接言われても、一歩引いてしまいます。
そのために地域でできることは、様々な問題から少し解放されるような場所やコミュニティー(関係性)を作ることだと思っています。
辛い過去を幸せな未来へ塗り替える
~講演、美容師、民泊運営を通して~
後編では、本業である美容師の経験から得た「おもてなし精神」と、旅行者との関わりを持ちたいと始めた「民泊」について、そして今後の夢についてお聞きします。……
高橋美江 たかはしみえ
元 ヤングケアラー当事者 Hair Dresser TiCAオーナー
幼少期から障がいを持つ両親のケアを担う。28歳で美容室を開業(月100名を超える顧客を施術、雑誌ヘアメイク等)。接客業の心得とおもてなしを活かすべく、世界各地を旅し、帰国後インバウンド事業を展開中。また、ヤングケアラー、いのち、起業、インバウンド、女性活躍などのテーマでも講演を行っている。
プランタイトル
ヤングケアラーの苦悩と気づき
~障がい者の両親の元に生まれて~
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