2005年に発達障害者支援法が施行されて以降診断者数が増え続けている発達障がい。小中学生の8.8%に発達障がいの可能性がある※と言われるほど身近な障がいである一方、その特性から誤解されることの多い障がいでもあります。近年は成人してから診断されるケースも増えており、職場の同僚や上司に発達障がいの方がいることも少なくありません。
今回は、自身も成人後に発達障がいの一種であるADHD(注意欠陥多動性症候群)およびASD(自閉症スペクトラム障害)と診断され、20年以上前から発達障がいに対する様々な支援活動を行っている広野ゆい(ひろの ゆい)さんに、成人期の発達障がい者の実情や、発達障がいの方がいる場合の職場環境作りについてお話いただきました。
※文科省「通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する 調査結果について」(2022年度調査)より
「怠けている」と怒られ続けた日々。自らの努力を証明するため診断を希望
――広野さんは2003年頃、31歳でADHDと診断されたそうですね。当時はADHDの認知度も低かったと思いますが、どのようなきっかけで診断されたのでしょうか?
広野 幼い頃から片付けができない、宿題をやっていかない、忘れ物が多い、時間に間に合わないことが多く、先生によく「またお前か!いい加減にしろ!」と怒られている子どもでした。だんだん先生の制裁がひどくなって、気がつくといじめられていることもありました。私自身はすごくいい子になりたかったのに、“言うことを聞かない子”“すごくできない子”と思われていたんです。
自分では一生懸命頑張っているのに周囲には怠けているように捉えられる日々で、大学時代には朝起きられず学校に行けないことも多くなりました。おそらくその頃には鬱になっていたのだと思います。「自分みたいな人間が生きていていいのか」「いないほうがいいんじゃないか」という思いを抱くようになり、28歳のときに鬱の診断を受けました。
そんなときにいとこの息子さんがADHDと診断されたんです。当時はADHDがあまり知られていなかったので、親戚中が「ADHDってなんだ?」と大騒ぎになりました。そこで母が買ってきたADHDに関する『のび太ジャイアン症候群(司馬理英子:著/主婦の友社)』という本を読んでみたら「あれ? これ私じゃん」と思ったんです。
――そこではじめて「自分はADHDかもしれない」と気が付かれたんですね。
広野 それまではADHDという言葉すら知りませんでした。その後『片づけられない女たち(サリ ソルデン:著/ニキ リンコ:翻訳/WAVE出版)』を読んで病院で治療ができることを知り、診断できる病院をインターネットで探しました。でも当時は診断できる病院が日本全国でも数カ所しかありませんでした。そこで当時『片づけられない女たち』の読者が全国で作っていたADHDの自助グループの集会にいくつも参加しました。その中でご自身がADHDであるドクターに出会い、関西の先生を紹介していただいたことで無事診断を受けられました。
当時は発達障がいという言葉すらなかった頃だったので、小児科で診断されるようにはなってきていたものの、近隣の精神科に行っても発達障がいのことを知らない先生がほとんどでした。大人の発達障がいというジャンルができたのは、発達障害者支援法ができてからです。それまでは障がいではなく“青年期までに収束する子どもの疾患”と考えられていたので、病院に行っても「大人になってからADHDの診断を受けたがる人はおかしい」という見方をされました。
――それほど発達障がいに理解のない時代に、自ら障がいだと診断されに行くことに恐怖は感じませんでしたか?
広野 兄がダウン症だったので障がいが身近なものでしたし、当時は発達障がいという言葉自体がなく、ADHDやアスペルガー症候群という“病気”だと思っていたんです。だから診断を受けることに特に抵抗はなかったですね。
それに、ADHDの人は子どもの頃から「怠けている」と怒られてきているので、「なんで自分だけこんなに怒られなきゃいけないんだろう」という思いを抱えて生きています。身体障がいの方などは突然「調子がいいから歩けました」なんてことはありませんが、発達障がいの場合は環境や状況が整うとたまたまできてしまうこともあります。だから「やればできるのに」「怠けている」と言われることが多くあります。そんな思いをし続けているので、「怠けているのではなく障害による特性だ」ということを証明できると思ってみんな診断を受けに行くんです。
――ADHDと診断されたことを伝えて、ご家族や周りの方の反応はいかがでしたか?
広野 私自身は診断されたことで気持ちが楽になりましたが、夫からは暴力を受けるようになり、両親には「お兄ちゃんは障がいだけどお前は障がいじゃない」と言われました。夫からはそれまでも「お前みたいな何もできないやつは生きていてもしょうがない」と言われるなど精神的な暴力は受けていましたが、できていないことが多かったことから私自身それに納得していたんです。
でもADHDだと分かったことで、「うまくできないのは病気のせいで、私は精一杯頑張っている。協力が必要だから手伝ってほしい」ということを伝えました。でも「それは言い訳だ」と暴力を受けるようになっていき、離婚して娘たちを育てていくことを決意しました。同じADHDの仲間の存在がなかったら本当に辛かったと思います。当時は仲間たちもひどい目にあっていて、診断を受けて離婚された方もいれば、会社を辞めさせられた方もいらっしゃいました。
互いの特性を理解しあい、すべての人が働きやすい環境に
――診断後も辛い環境だったと思いますが、どのようにNPO法人や株式会社を立ち上げていかれたのでしょうか?
広野 最初はサロンの開設からスタートしました。本当に理解してくれる人が当事者しかいなかったので、身近に仲間が欲しいと思ったんです。しかし、立ち上げて数年後に発達障害者支援法ができたことで大人になってからADHDやASDと診断を受けた方からの相談が増え、サロンという形では対応が難しくなりました。そこで、きちんと対応できるように設立したのがNPO法人DDACです。
そうして発達障がいの方々の相談に乗っていたのですが、次第に診断されている当事者の方だけでなく世の中のすべての方が得意不得意のある凸凹の特性を持っていることに気が付きました。そこでお互いがそれぞれの凸凹を理解し、活かしあうような職場環境にしたいという思いから一般の社員さん向けの社員研修をはじめることにし、株式会社Art of Lifeを作りました。
例えばADHDの方はミスはあるもののアイデアがどんどん出てきたり、物事を動かしていく力を持っています。逆にASD(自閉症スペクトラム)の方は同じことをずっと続けるのが好きなんです。特性が逆なので同じ職場にいればぶつかりますよね。でもそれぞれ特性があることを知って互いのよさを活かし合えば素晴らしいチームになるので、研修によって特性を活かす方法を体験してもらえるようにしています。
――最近は発達障がいの認知度も高まっているように思いますね。
広野 そうですね。最近は私が診断されたころとは比較にならないほど障がいが受け入れられやすくなっていると思います。障がいのある御本人が診断前に自覚していることも多いですし、若い世代の方は学生時代に発達障がいの方と過ごした経験のある方も多いので、職場内での発達障がいに対する抵抗感がなくなってきています。
実際に研修をして感じるのは、「この特性があるから障がい」ということではなく「特性に対して環境が合っていないから障がいになっている」のだということです。ADHDと診断されている方は鬱や強迫性障害などの二次障害が重い方が多いように思います。逆に特性が強くても周りに愛されてすごい成果を出している方もいらっしゃいます。
――周りの方が問題と感じなければ、あえて診断を受ける必要はなさそうですね。
広野 そう思います。ただ、まだ職場内での理解不足はあると感じています。発達障がいは一人ひとり症状が違いますし、環境によっても変化するものなので、ご本人ですら自分の特性を理解されていない場合もよくあります。やってみないと何ができて何ができないのか分からない部分もあるので、「発達障がい」と一括りにして考えるのではなく、一人ひとり違うということを理解して個人個人にしっかりと向き合わなければうまくいきません。
これは企業側からすると面倒に思えることかも知れませんが、企業側にもメリットがあることです。すべての社員の話をちゃんと聞いてスキルを把握できる人材が育ちますし、個人の得意不得意に合わせて働きやすい環境を作ることは発達障がいでない方にとっても働きやすい環境になるからです。
私の会社では発達障がいの方が働きやすい環境づくりのサポートも行っていますが、例えば耳から情報が入りづらい方に対し、口頭での指示に加えてメールでも指示をするというルールを作った際には、障害のある方だけでなく社内全体で業務がスムーズになりました。そのように、発達障がいの方を意識した就業体制を整えることは、企業全体の利益にも繋がるのです。
人は凸凹があるから面白い。発達障がいのある人生を誇れる人を増やしたい
――講演ではどのようなお話をされていらっしゃいますか?
広野 学校や企業など様々な場で私の子ども時代のお話や、私たちが普段どのように感じ、どんなことに傷つくのかなど、発達障がいの当事者としての気持ちをお伝えしています。発達障がいに対する配慮は本当に些細なことですが、周りの方に余裕がないと、その些細な配慮すらできなくなってしまうものです。些細な配慮をしあうことで障がいのある方もない方も楽しくいきいきと働けて、みんなが生きやすい世の中になってほしいと思ってお話しています。
――最後に、広野さんの夢をお聞かせください。
広野 私がいつもお伝えしている「人類みな凸凹」という言葉を広めていくことで、「人は凸凹があるからこそ楽しい・面白い」と思えるような社会にしたいというのが私の夢です。ただ発達障がいに関する理解を深めるのではなく、発達障がいの方自身が「発達障がいのあるこの人生でいいんだ!」と言えるようになることが大切です。そのためには発達障がいの当事者同士で話し合うことで自分を理解し、周りとうまくやっていく方法を掴んでいけるような場が必要なので、私たちがそういった集いの場を作り、広げていけたらいいなと思っています。
――本日は貴重なお話をありがとうございました。
広野ゆい ひろのゆい
兵庫県障害福祉審議会委員 大阪府発達障がい児者支援体制整備検討部会委員 大阪府発達障がい者支援センター連絡協議会委員
青山学院大卒。28歳でうつ病に、31歳でADHDと診断される。2008年に発達障がいをもつ大人の会(現・NPO法人DDAC)を立上げる。発達障がい当事者の立場でセミナー、教師や専門職向けの講演、当事者向けの片付け・金銭管理講座も行っている。NHKハートネットTV、バリバラ等テレビ出演多数。
作家
プランタイトル
成人期の発達障がい者の自立に向けて
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