
「黒のカリスマ」と呼ばれ、ヒール(悪役)としてプロレス界で圧倒的人気を誇る蝶野正洋(ちょうの まさひろ)さん。今回は前後編にわたって、蝶野さんの強さの裏側に迫ります。
前編は、ベビーフェイス(善玉レスラー)からヒールに転向した理由についてお聞きしました。人気絶頂の中、なぜあえて悪役になることを選んだのか。蝶野さんの強さやカリスマ性の源に触れる、苦悩と葛藤のストーリーをご覧ください。
不良からヒーローへ。挫折と迷いの中で見つけた夢への道

▲ デビュー当時の蝶野さん。入門から半年後の1984年10月にプロデビューを果たした(画像:蝶野さん提供)。
――まずはプロレスラーの道を選ばれた理由からお聞かせください。
蝶野 俺は中学生から素行の悪さで有名でした。ただ、小学生から続けていたサッカーに関しては、プロを目指して真面目に取り組んでいたんです。でも、サッカーの名門校に推薦で進学できるはずが、学力不足で落ちてしまって。
更生しようとあえて誰も知人がいない、自宅から離れた高校を選んで進学したんですが、中学時代の噂がかなり広まっていて、高校生活も荒れたものになってしまいました。
それでも一緒に遊んでいた仲間たちは、18歳になる頃には進路がどんどん決まっていくんですよ。進路が決まっていく仲間を横目に、目標もなくフラフラしていた時に初めて見たのがプロレスでした。
夜遊び歩いていた俺は観ていなかったんですが、当時は金曜や土曜の夜には毎週放送されるくらいプロレスが大人気だったんです。初めてプロレスを観た時は「喧嘩が金になる世界があるんだ」と驚きましたね。
元々サッカー選手を目指していましたから、スポーツで生計を立てることは自分にとって夢でした。両親に育ててもらった感謝もありましたから、まともな職業に就きたいという思いもありました。そんな思いから、「大きく稼げて人気がある」という理由で、ほとんど知識もないままプロレスの世界に飛び込んだんです。
――ご両親には内緒でプロレスの道に進まれたのですよね。分かった時に反対はされませんでしたか?
蝶野 親父には怒られ、お袋には泣かれましたね。「厳しい世界だ。お前のように中途半端で何もできていない人間が続くわけがない」と。それでも「1年だけチャンスをください。ダメなら大学に行きます」と頼んだら、「半年だけなら」と許可をもらえました。
――では、すぐに結果を出さなければならない状況で入門されたのですね。デビューも早かったですよね。
蝶野 そうですね。でも、入門初日から少し後悔しました。入門初日に30人くらいいる先輩たちの前に、同期の選手たちと子どものように座らされたんですが、そこに当時副社長だった坂口征二さんもいたんですよ。
坂口さんは身長が2m近くある恐竜みたいな体格の人だったんですよ。見たことがない迫力に、「次元が違うな」と。「こんな人がいると知っていたら入門しなかったのに」と思ってしまいました。
ただ、入門当時はちょうどケーブルテレビやBS放送などが導入されて、メディアに引っ張られる形で業界が分裂している時期でした。長州力さんや前田日明さんなどの有名選手が次々と移籍していき、若手への引き抜きもある。そんな状況に新日本プロレス側も、どうにか新人を残したいという思いがあったようです。
最初の数カ月は厳しい訓練によって脱落者を出す“ふるい落とし”もありましたが、徐々に扱いが変わってきて、わずか半年でデビューできることになりました。本来なら俺は、デビューまでに1年はかかっていたと思います。
だからデビューして1年目は、当然試合で勝てませんでした。1年の差があるだけで、体力も経験値も大きく違いますからね。最初は半ばいじめのように、先輩たちの練習台になって技をかけられ続けるだけでした。1年ほど経てば防衛力が付いて技をかけられにくくなりましたけど、最初は力の差がありすぎて先が見えませんでしたね。
差別、怪我、抑圧…。葛藤の果てに選んだヒールという自分らしさ

▲武闘派宣言でヒール転向を宣言した蝶野さん(画像:蝶野さん提供)
――蝶野さんは1994年に突然ヒールターン※
されましたよね。ベビーフェイスとして実力も人気も高まっていたにも関わらず、なぜヒールに転向されたのですか?
※ベビーフェイス(善玉レスラー)からヒール(悪役レスラー)に転向すること。蝶野さんは1994年の“武闘派宣言”によりヒールへの転向を表明した。
蝶野 ヨーロッパやアメリカに海外遠征したんですが、海外ではアジア人に対する人種差別が大きかったんです。リングに上がったら、会場全体が敵なんですよ。
試合中も、観客から差別的な言葉が平気で投げかけられます。そんな状況に「ふざけんなこの野郎」という思いが腹の底から湧き上がってきて、観客に向かって日本語で文句を言ったり睨みつけたりしていました。
でも、それが自分のキャラクターになっていったんです。ヒールの自分の中に不良時代のヒーロー像が重なる部分もあって、「自分の思っていることをそのまま出せるのはヒールなんだろう」と思うようになっていきました。
‘94年は、俺にとって30歳を迎える節目の年でした。「40歳まで現役でいたい」という目標の、折り返し地点を迎えたわけです。
しかしデビューから’94年までの10年間は上に上ることだけで必死で、上ったあとのことは何も考えられていませんでした。しかも‘88年に患った首の怪我から、「いつまで続けられるだろうか」という不安も抱えていました。そんな状態で節目を迎えようとしていたんです。
日本のプロレス界は付き人が付いて、組織で動いていくのが一般的ですが、アメリカではスター選手でさえ自ら交渉し、一人で遠征に向かいます。フリーランスのように自らの力でのし上がっていく世界なので、レスラー一人ひとりが自己プロデュースやキャラクター作りをしっかりできています。
一方、日本のプロレス界は、組織がプロデュースを行っています。競争は激しいんですが、選手自身に勝つための想像力や自己プロデュース力が育っていなかったんです。
俺自身、明確なキャラもなく、トップに立った先にどうすればいいかも分からず、ただ焦ることしかできていませんでした。でも節目を前にして、「もう答えが分かっていなくても手を挙げなければダメだ」と考え、ヒールの道を選んだんです。
――将来に向けて自分で道を切り拓くためのヒールターンだったのですね。
蝶野 自分の中で、「トップとして何かが欠けている」という思いがあったんですよね。どんな業界でも、トップの選手というものは後輩や先輩たちに背中を見せ、会社を背負っていかなければなりません。自分の力で走って組織を動かさなければ行けない立場ですから、組織に押されて走っていてはダメなんですよ。
それまでトップとして四方八方からくる責任や役割を飲み込んでやっていましたが、それに気を使いすぎて限界を感じていたのも、ヒールになった1つの要因だったと思います。多くを飲み込む力は持っていないものの、上に立てる力は持っていたので、自分の好きな方向に引っ張っていこうと思ったんです。
ただ、トップで引っ張っていこうにも、藤浪(辰爾)さんや長州さんといった大きなライバルがいるわけです。同じ方向で戦いを挑んでも仕方がないと考えました。だから彼らの対面となるヒールになったんです。
「俺が業界を引っ張る」悪役だから見せられたトップとしての背中
▲奥様がデザインした黒の衣装に身を包み、ヒールとしてリングを沸かせた蝶野さん。(GAORA SPORTSより引用)
――ヒールになられてからは黒一色の衣装にされるなど、明確な世界観が作られていますよね。自己プロデュースについてどのような戦略を立てていらっしゃったのですか?
蝶野 自分のキャラクターや見せ方を学んだのは海外遠征です。海外では“人種差別される東洋人”というのが自分のキャラクターになっていましたが、当初は自分のキャラのなさを実感していました。そのため日本に帰ってからも、“海外に通用するキャラクター”という点は常に意識していました。
まず変えたのがビジュアルです。ヒールターン前は先輩レスラーに倣って“田吾作スタイル”と呼ばれる法被や着物を着たスタイルにしていましたが、ヒールになってからは妻がデザインした黒いイメージカラーで統一した衣装を着るようになりました。
初期の衣装は、不良の象徴である長ランをイメージしていました。学生服は軍服が由来になっている日本独自のものなので、多分アメリカ人も知らないだろうと。俺は見た目がどう見ても東洋人なんで。東洋人の見た目と海外でも通用するキャラクターをフィットさせるというイメージはありました。
ただドイツ人である妻は軍服に良いイメージを持っていなかったので、俺のイメージを説明して、妻の感性と融合していくような作り方をしていました。だから長ランというよりも、ダースベイダーのような近未来的な印象に仕上がっています。
もちろん格好だけではなく、「ヒールとしての方向性や色を見せられる言動はどのようなものなのか」ということも毎日考えていました。
――ヒールらしい言動とは、どのようなことをイメージされていたのですか?
蝶野 野党の政治家が与党政権に文句だけ言っていても、「じゃあ、あなたならどう変えていくんですか?」と言われてしまいますよね。それと同じで、ヒールは文句を言うだけでなく、自分の考えが必要なんです。だから俺は、「プロレス業界は時代に合わせて変わっていかなければいけない」という考えを訴えていました。
アメリカでは試合を運営するプロモーターと選手は、ある意味敵でありパートナーでもあります。でも日本では、選手とプロモーターはチームでなければならないという考え方です。
ただ、チームで運営していれば、やっぱり制限されてしまうというか。プロレスラーは元々、職人の一人親方のようなものなんですよね。だから「こんなやり方はプロレスじゃないよ」とか「自分はこんなことがやりたいんだ。やらせてくれ」といった不満は、当時の選手の誰もが抱いていたと思います。
俺自身も会社のやり方に不満を持ちながら、一方では選手会長として選手たちの不満も聞くわけですよ。でも選手と会社の間に立って仲裁しているうちに、「自分はこんなことをしたかったわけじゃない。選手の上に立つ身として、自分がやりたいことをやっていく姿を見せなければいけない」と思うようになったんです。
俺はプロモーターのことを、チームではなくライバルだと思っています。プロモーターに「なんで次のメインイベントを俺に任せないんだ! 今、業界の柱になっているのは俺だろう! 地方興行を見れば分かるじゃないか!」なんてこともよく言っていました。
そうやって思ったことをそのまま言えて、許されるのが実力を持ったヒールなんだと思います。会社の不正もズバズバ指摘していましたね(笑)。ヒールとしての俺のイメージは、基本的には与党である会社に対する野党のような立ち位置だったと思います。
――プロレス界のトップという役割を強く意識していらっしゃったようですが、プロレス界を牽引していく上で意識されていたことはありましたか?
蝶野 一人親方が集まった集団を誰かが先導したとしても、誰も付いてきません。だから背中を見せるしかないと思っていました。「俺が走る姿を追いかけさせる。それが俺達の世界に合ったやり方なんだ」と。
自分は追いかけられる側の人間ですから、後ろのことはあえて意識せず、自分の思う走り方をするようにしていました。自分のペースがありますし、一生懸命走っている奴のことは、お客さんも業界も見てくれますからね。
(後編に続く)

人を導き、守る「黒のカリスマ」 蝶野正洋が考える強さとは
後編では、奥様と共に経営するアパレルブランドや社会貢献活動など、蝶野さんのプロレスラー以外の活動について伺いました。プロレスラー、経営者、活動家。様々な立場で人を導き、守ってきた蝶野さんにとって強さとは何か。60歳を超えた今だからこそ見えてきた、蝶野さんの新たな生き方をご覧ください。
蝶野正洋 ちょうのまさひろ
プロレスラー
1984年新日本プロレス入門、同年プロデビュー。2010年フリーとなって以降も絶対的な存在感を放ち、黒のカリスマとしてプロレス界に君臨し続けている。また、「AED救急救命」ならびに「地域防災」の啓発活動にも尽力。テレビ出演、講演活動など、幅広い分野で活躍中。
講師ジャンル
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ソフトスキル | リーダーシップ | モチベーション |
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社会啓発 | 男女共同参画 | 防災・防犯 |
プランタイトル
蝶野正洋のリーダーシップ論


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