風雲厳島、三島村上氏出陣せず

大成健太郎 おおなりけんたろう

株式会社アクサスワン 取締役

提供する価値・伝えたい事

中国地方の覇権を賭けた戦いに臨み、三島村上氏等瀬戸内の海に生きる人々は、いかに行動したか。
あわせて、59歳からの逆転を賭けて挑んだ毛利元就の戦略と戦術とは。

歴史上の有名な合戦のあった史跡は、今ほとんど無秩序な開発や、自然の荒廃で当時を偲ぶよすがもない。厳島合戦の舞台となった宮島は、世界遺産の厳島神社を中心に当時の自然がよく残されてる。

フィールドワークの手法を取り入れた構成で、戦国の世も現代も、激変する状況に対し勝ち残る唯一の方法は、己自身を冷静に見極め、勇気を持って行動することと体感する。

内 容

大山祇神社を祭る備後、伊予地方の人々は戦国時代、野島、来島、因島村上氏を旗頭とする内海最強の海上武装集団を形成していた。
1555年(天文24年)中国の覇権を賭けたー戦が安芸厳島で行われ、戦いの直前、三島村上氏の来援を得たとされる毛利元就は、大敵陶晴賢を討ち戦国大名へ名乗りを上げたとされるが、事実はドラマのようには行かなかった。

1、合戦の経過
  9月21日 陶禅門は当島へ押し上り宮崎を大将の陣とす。
    23日 吉田よりは地御前に出張す。
    26日 熊谷信直船数五六十艘にて当城へ入る。
    28日 興家の警固二三百艘下る。
    29日 暮れにかかり元就乗船ありて包の浦に船を付け博打尾へ上る。
 10月 1日 興家その外の国衆などは、博打尾に鬨の声上がり後、おし上り陶、弘中は一矢も射ず西山へ引き下がる。小早川隆景は追いかけ給いて西山の峠にて陶の内の三浦に懸け合い戦い行<。陶全董はそれより下り、大江と云う処にて腹を切らせ申す。
     3日 龍の窟に取り巻かれた弘中父子を討ち元就弥山を下向、頭は取り集め八千ばかりもあり。
        「棚守房顕覚書」 1580年(天艟正8年) 房顕86歳

2、1725年(享保10年)編萩藩閥閲録全四巻の家臣等315家に伝わる元就自筆の文書1260通のうち船手組、飯田、井上、末長の諸家には、厳島陣の感状が残されているが、野島、因島村上家にはない。

3、興家(沖家)は三島村上氏でなく、屋代島衆のことではないか。沖家室島の地名がキーワード。
  室は奥のことで沖家の奥の島という意味。沖の対語は陸で「クガ」と読み、玖珂から見た沖家は、屋代島でその奥に位置するのが、沖家室島である。

4、戦いの直後、10月5日、桑原、沓屋、神代、浅海氏等屋代島衆25名は、1632石の給地を要求、元就、隆元がそれに証判を与えている。萩藩閥閲録巻136於嶋中御本地相加百三拾石足之事、任御望令同心候、別而御馳走可為祝着候、恐々謹言 壬十月五日 沓屋市佐(景頼)殿 隆元、元就 御判

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