長引くコロナ禍は私たちの生活を大きく変えました。ソーシャルディスタンスを気にするあまり、心の距離が遠くなってしまったり、思うような生活ができなかったり…。誰もが何らかのストレスを抱え、中には生きる気力さえも失いかけている人もいるかもしれません。

そんな方にぜひ聴講していただきたいのが、2009年に出された『ママの足は車イス』の著者、又野亜希子さんの講演「命の輝き~車イスから見える世界ってけっこうステキ~」です。

今回は、この講演から一部を抜粋してご紹介いたします。

Your Image【監修・取材先】
又野亜希子氏

『ママの足は車イス』著者
元 幼稚園教諭/保育士

突然の交通事故で自由を失った身体

2004年7月、保育園に通勤する途中で交通事故に遭遇。病院に運ばれ、医師から「あと4時間の命」と告げられました。全11時間半にも及ぶ2度の大手術をして、なんとか一命を取りとめることはできたものの、頸髄を損傷し、胸から下の自由を失いました。立つことも歩くこともできなくなり、車イス生活を余儀なくされました。そして、手にも麻痺が残り、握力は右手0㎏、左手2㎏ほどしかありません。手術を終えしばらくは、一体何が自分に起こったのか、わかりませんでした。

事故に遭うまでの私は、とても充実した日々を送っていました。大学卒業後の4年間は幼稚園で働き、結婚。その後、短大で保育士の資格を取得しました。やっと保育士としてキャリアをスタート。夫婦で妊娠についても考え始めました。

大きな事故に遭遇したのは、そんな頃です。重度の障害を負った私は、先の見えない将来に絶望していました。生きていく希望も勇気も持てない中、7カ月にもわたる、辛く苦しいリハビリの日々が始まりました。

「どんなにリハビリしても歩けるようになるわけではない。周囲に迷惑をかけて生きるくらいなら死んでしまいたい」
「リハビリが進み、一人で車イスに乗れるようになったら首を吊りたい」

夜になるとそんなことばかりを考えていました。

▲動かなくなった身体と向き合うリハビリ生活は、精神的に辛かった

リハビリ生活で励みとなったのが、一緒にリハビリを頑張る仲間たちの存在でした。仲間の一人に、サーフィンの事故で首の骨を折り、下半身麻痺となった当時23歳の男性がいました。彼も、受傷直後は自殺することが頭をよぎったといいます。それでも、車いすラグビーでパラリンピックに出たいという大きな夢を持ち、毎日リハビリやトレーニングに必死に励んでいました。退院後は千葉県の車いすラグビーチームに所属。見事、車いすラグビーの日本代表に選ばれ、2016年のリオ大会では銅メダルを獲得しました。喘ぎ苦しみながら頑張っている仲間の姿に、私はいつも勇気とパワーをもらっていました。

リハビリが始まった当初、私は一人で車イスに乗ることさえできず、着替えも排せつも全て看護師さん任せでした。しかし、日々リハビリを続けていくうちに、少しずつではありますが、一通りの日常生活ができるようになっていきました。それが自信へ繋がり、退院後の夫と生活に希望が持てるようになってきたのです。

暗闇に灯った一つの命

▲娘の誕生。人生最上の幸せを味わう

その後リハビリを終えてようやく退院。不自由な身体であっても、工夫しながら家事が少しずつできるようになってきました。また、障害を負った身体で社会に出る怖さを感じつつも、家族ばかりか友達との外出も楽しめるようになっていきました。そんな頃に娘を妊娠しました。不安は大きかったものの、我が子を授かることができた幸せで胸がいっぱいになったことは今でも忘れられません。

頸随を損傷した身体において、妊娠出産のリスクが高かったにもかかわらず、妊娠はほぼ順調に進み、2006年5月に帝王切開で無事に出産することができました。不自由な身体での育児は悪戦苦闘の日々でした。周囲の協力なしには子育てできませんが、母親としてできることは、なるべく自分でやろうと試行錯誤を重ねました。

▲ベビーベッドは車イスでも座ったまま娘をお世話できる特別仕様

特に、大変だった時期は、ハイハイやつかまり立ち、歩き始めた頃です。わが子を床から抱き上げたり、おろしたりできず、次第に動きが活発になっていく娘に対応できなくなりました。
娘は、私にできないことはお父さんやおばあちゃんを求めるなど、この頃からすでに私の状況を分かってくれているようでした。しかし、そのような姿を見ていると、母親としてできないことが多い自分が情けなく思えて仕方ありませんでした。

▲首も座ってきたので、抱っこひもを使ってお散歩できるようになった

娘が保育園に通うようになり、送迎は友人に頼んでいました。ある日、私も友人と一緒に保育園への迎えに行ったときのことです。ちょうどその時、園の玄関にお雛様の七段飾りがあり、娘とそれを見ながら「きれいね」と話をしていました。すると、年長さんの男の子が突然私の前に立って、「近づかないで」と言いました。

「お雛様に近づいて、壊したら危ないと思っているのかな」

私はそのように思って男の子たちに声をかけようとすると、「うわ~きた~!!」と、まるで嫌いな人から逃げていくかのようなふるまいをされました。目の前にその子たちのお母さん方もいらっしゃったのですが、私と目を合わせることなく「すいません」と謝ってこられました。私は笑顔で、「車イスなんて普段なかなか見ることがないから、びっくりしますよね」と返しました。

車に戻ってから、どっと涙があふれ出しました。それは自分を思っての涙ではなく、娘を思って出た涙でした。子どもの社会は大人の社会の縮小です。これから娘は、「親が障がい者」という偏見と闘っていかなければならないのかもしれないと思うと、いたたまれない気持ちになりました。
しかし、すぐにはっとしました。
「母親が障がい者であることは、何も恥ずかしいことではない。この子の母親は私しかいない。これからは、もっともっと社会に出ていこう。周囲に車イスで生活する私のような存在をもっと知ってもらおう」

娘が年長になった時、じゃんけんで負けて父母会の会長になりました。最初は障がい者の私がやっていけるのか不安でしたが、周囲の皆さんがとても好意的で、協力してくださいました。そして、子どもたちも私の姿をよく見かけるようになってから、「車イスってどうやってこぐの?」「どうやってお風呂入っているの?」と話しかけてくれるようなり、少しずつ、周りに受け入れてもらえているように感じて嬉しくなりました。

▲1才3ヶ月の娘と車イスでかけっこ

また、娘を保育園に預けるようになってから私の生活は大きく変わりました。洗濯や掃除、料理をして娘の帰りを待っていられることに母親としての喜びを感じられるようになったのです。それまでは、娘の世話をしていると家事ができず、家事をしていると娘の世話ができない。母親として何をするにも中途半端で自分を責めてばかりいました。今となっては、歩いていた頃の2倍3倍の時間はかかっても、夫や娘のために家事ができる。そんな素朴なことに幸せを感じています。

苦難を経て笑顔が戻った今

▲2ヶ月の娘と家族で記念撮影

笑顔が戻った今思うことは、苦難との向き合い方と、乗り越えられるかどうかは自分次第だということ。
結局のところ、どんなことも自分でしか乗り越えることはできません。一方で、自分ひとりでは乗り越えられない苦難もあります。そんなとき、自分が一生懸命に生きることで、必ず誰かが励まし、自分を応援してくれていることを知りました

また、退院直後は、ただただ歩いている人が羨ましかったのですが、いつしか車イスが私の足となっていることに気がつきました。そして「車イスから見える世界はけっこう素敵」と心から感じられるようになっていました。自分の足で歩いていた頃には見えなかった、感じられなかったものに、輝きを感じられるようになっていたのです。

それは何も特別なものではありません。自然の美しさや人間の持つ愛情、そして、何よりも命の輝きを感じています。今、私は互いを認め支え合える社会で、それぞれの命がその人らしく輝くことを願って、私自身の経験をお伝えする活動をしています。

夢があることで苦難を乗り越えられる

▲私の車イスを引いて娘とお散歩

夢や希望が苦難を乗り越える大きな力になります。その夢は大きな夢でなくても、たとえささやかな夢でも力になります。私の夢はささやかなことでした。

家族のために食事を作れるようになりたい。
友達と外出できるようになりたい。
一人で外出できるようになりたい。

しかし、生きている間には、先が見えない、夢や希望を抱くことができない、そんな苦しい状況に遭遇することもあるでしょう。

そんなときは、目の前のこと、今の自分にできることを一生懸命取り組むことこそが大切だと思っています。きっとそれが何かにつながります。

私は、一時期、できなくなってしまったことだけに目を向けて、泣いてばかりいました。しかし、できることに目を向けると、前向きな気持ちになりました。そして、それに一生懸命に取り組んだことが、結果として、今の講演活動や執筆活動、子育て支援活動など、障がい者としての社会活動に繋がっているのだと思います。

▲学校での講演風景

また、たとえ自分には困難と思うことでも挑戦することが大切だと思っています。努力して挑戦し達成できたら、それは何よりもの喜びです。自信に繋がるでしょう。
しかし、時には努力したにもかかわらずうまくいかなかった、失敗してしまった、そうした結果に終わることもあるはずです。
長い人生で考えると、この挫折や失敗こそが大きな力になることに、障害を負って気がつきました。

ここまで頑張ってこられたのだから、次もきっと頑張れる

そんな自分自身を信じる心が、苦難を乗り越える力となるのだと思います。

無駄な命は、ひとつもない

私は重度の障害を負ってしまいましたが、今となっては自分が生かされている意味を感じられるようになりました。そして、今、私はこう思うのです。
この世に存在する命は、一つも無駄なものはないということを。すべて命は、意味があり、そして価値のある大切なものなのです。

コロナ禍で厳しい状況にある今、孤独や不安で暗闇の中にいる方もいらっしゃるかもしれません。泣きたいときにはたくさん泣いたらいいし、沈むところまで沈んだらいいと思います。私もそうでした。

しかし、涙を流した後に顔を少し上げてみてください。きっと小さな光が見えるはずです。あなたにもきっといつかこの小さな光が降り注ぎます。やまない雨はありません。朝の来ない夜はありません。あなたを必要としてくれる人が必ずいて、あなたにしかできないこと、あなただからこその役割が必ずあります。

そして、障害の有無にかかわらず、人は一人では生きていけません。支え合っているからこそ生きていけます。苦しいとき、辛いとき、誰にでも構わないのでその思いを伝えてみてください。必ずあなたに手を差し伸べてくれる人がいるはずです。あなたは決して一人ではありません。

自分にとっての「生きる喜び」

▲娘の七五三にて

私は今、「生きる喜び」を感じています。障がい者として第2の人生が始まった頃は、「生かされている喜び」を感じることがよくありました。もちろん、今でもそのように感じることはあります。しかし、今は生かされているという受け身的な意味よりも、積極的に自分の力で生きていることに喜びを感じられるようになりました

こんな私でも誰かに必要とされ、微力ながら誰かの役に立てることを知りました。人としてこんなに幸せなことはありません。それこそが私の「生きる喜び」です。このように感じられるようになったのは、どんなに小さなことでも自ら動き、挑戦してきたからだと思います。

また、自分らしく生きることで「生きる喜び」を感じられるようになりました。昔の私は、健常者の自分と障がい者の自分を比べては、できなくなってしまったことが多くなった自分を責めてばかりいました。しかし、あるとき、苦手なことやできないことは周囲に協力してもらい、私は私にできることを一生懸命に取り組もうとする気持ちが生まれました。そうなると、ありのままの自分を受け入れられるようになりました。

私には私にしかできないことがあって、こんな私でもできることはたくさんあったのです

いつもとは違う角度から自分を見つめ直すことで、新たな自分を発見し、自分だからこその良さに気がつくかもしれません。
それぞれが持つ自分らしさを互いに認めて支え合える。そして、それぞれがその人だからこその生きる喜びを感じられる――。そんな命輝く社会の形成を強く願っています。

又野亜希子  またのあきこ

『ママの足は車イス』著者 元 幼稚園教諭 保育士


医療・福祉関係者実践者

交通事故によって頸髄を損傷。退院後、第1子を妊娠出産。子育ての様子が、TBS、テレビ東京、テレビ埼玉でドキュメンタリーが放送される。講演は、障がいを負って生きる中で感じている、命や愛の輝きが伝わる内容として好評。『ママの足は車イス』『ちいさなおばけちゃんとくるまいすのななちゃん』の著者。

プランタイトル

命の輝き
~車イスから見える世界ってけっこうステキ~

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