人は人生の中で様々な出会いを経験しますが、取材を生業とするジャーナリストは、特に印象的な出会いが多い職業かもしれません。元テレビ局員の深井 小百合(ふかい さゆり)さんも、取材によって数々の印象的な出会いを経験されてきました。

深井さんは過酷な幼少期を過ごし、13歳で両親を亡くしました。そんな経験から何をやっても興味が持てず長続きしなかったという深井さんの人生を変えたのは、中学での放送部との出会いだったそうです。今回はそんな人生を変えた放送部のお話と共に、数々の取材経験の中から特に印象的だった出会いのストーリーをご紹介していただきました。

教育漬けの毎日と父の死。何をやっても続かない日々を変えた放送部との出会い

▲高校の放送部時代の深井さん

――テレビ局員という道に進まれたきっかけは何でしたか?

深井 大きなきっかけは、中学・高校で放送部に入ったことです。私がずっと「伝える」ということに携われているのは、すべて放送部で教わったことや出会いの影響だと思っています。放送部に入った頃の私は父を亡くしたこともあって何をやっても続かず、学校を休んで遊びに行くこともあるような日々を過ごしていました。そんな中、友人に誘われて入ったのが放送部です。人数合わせで誘われただけでしたし、最初は部活に対してやる気がありませんでした。でも仲間ができ、先生に信じてもらえるという経験をしていくうちに、放送部が自分の居場所になっていきました

――放送部に入り、人生が変わったのですね。深井さんはご両親が精神疾患をお持ちで大変な幼少期を過ごされたそうですが、その経験が「何をやっても続かない」という状況に関係していたのでしょうか?

深井 父は精神疾患を患っていたため、仕事をころころと変えていました。幼い頃に両親が離婚したので母とはほとんど会っていませんが、母も精神疾患を患っていたと聞いています。

今なら教育虐待と言われるかもしれないほど、父は非常に教育に厳しい人でした。幼稚園から受験勉強し、小学校もお受験で入りましたが、せっかく入った小学校も「校風が合っていない」という理由で転校させられました。毎日たくさんの問題が用意されていて、それを解かなければいけないのにやる気が起きずできない…という幼少期でした。

――確かにそれは意欲がなくなってしまいますね。

深井 そうですね。自分で選ぶことができず、父に選んでもらったものについて行かざるを得ない環境でした。でも13歳のときに父が脳疾患で亡くなり、逆に自分で選択しなければいけない環境に変わったので、「自分がやらなければいけないことは何か」を考えるようになりました

――現在のキャリアは放送部で教わったことや出会いがすべてと仰いましたが、どのような出会いや学びがありましたか?

深井 高校時代に取材を通していろいろな方の生き方に触れられたのは大きかったと思います。ホームレスの方を手助けしている女性や、引きこもりから努力して医師になった男性など、取材で様々な方に出会っていく中で「自分だけが大変なわけじゃない」「自分にも何かできることがあるのではないか」と考えるようになりました。また、取材やアナウンス時の喋り方を学べたことや、顧問の先生の熱意ある指導を受けられたのも大きな糧になったと思っています。

実は高校でも、最初は放送部に入る気はなかったんです。見学に行って断れないまま入ったのですが、そうした考え方の変化もあって最終的には部長も務めました。全国大会常連レベルの強豪校だったこともあって大変なこともありましたが、放送部で学んだことに無駄はなかったと思っています。

印象的な出会いに溢れたテレビ局員時代。人生に触れ、学べることが取材の魅力

▲テレビ局員として取材をしていた頃の深井さん

――テレビ局員になることに迷いはありませんでしたか?

深井 ずっと放送に携わってきたので、思い返せばごく自然とテレビ局員を目指していたのだと思います。簡単に入れる業界ではないので大変なこともありましたが、ご縁あって三重テレビ放送に入社しました。

――テレビ局員時代はどのような業務をされていらっしゃいましたか?

深井 最初は編成部に配属されて事務仕事をしていましたが、入社数ヶ月後の人事異動で報道制作部に配属され、番組制作に携わるようになりました。基本的にはディレクターとして、自分でネタを調べ、企画し、取材するということが主な業務です。

グルメや街ネタなどのほのぼのとした取材が基本でしたが、ニュース特集やドキュメント番組を制作することもあり、そうした作品で受賞したこともあります。ローカル局なので、比較的自分の取材したいものを企画して取材できるという環境でしたね。

――数多く取材をされてきたと思いますが、取材の中で自身の考えが変わるような印象的な出会いはありましたか?

深井 いろいろありますが、1つは広島の「ばっちゃん」と呼ばれる中本忠子(ちかこ)さんとの出会いです。子どもたちに無償で食事を提供する活動をしている方なのですが、中本さんの元に来る子どもたちの様子に驚きました。字が読めない子、食べ物を万引きをしてお腹を満たしている子、何ヶ月も同じ下着を洗濯せずに履き続けている子など、非常に厳しい家庭状況にいる子どもたちの様子を目の当たりにしたことはとても印象的でした。この取材を通して、中本さんのように、他人を幸せにすることで、自分も幸せを感じられるのだということを教えてもらったと思っています。

また、昨年亡くなられたジャスコ創業者の小嶋千鶴子さんへの取材も印象的でした。戦後間もなく海外にスーパーマーケットの視察に行ったり、パート労働制度を導入されたりと、今のイオンの礎を築かれた方です。小嶋さんはわずか23歳でジャスコの前身である岡田屋呉服店の代表に就任しますが、戦争で店を焼失してしまいます。しかし、店の焼失を予想して木材を準備しておいたことで、焦土の中いち早くお店を復興させたのです。そうした小嶋さんの行動やお考えを取材して、目標を持って行動することの大切さを学びました。そのように人の人生に触れて学ぶことができるというのは、取材の大きな魅力だと思っています
※スーパーマーケットなどを運営するイオン株式会社の前身企業

――「戦争」というワードが出てきましたが、深井さんは原爆からの復興をテーマとした取材で受賞もされていますよね。「原爆」や「戦争」というテーマは、深井さんの中で思い入れのあるものなのでしょうか?

深井 広島出身ですし、私自身が被爆三世ということもあり、関心を寄せているテーマではあります。「被爆体験者の祖母からもっと経験談を聞いておけばよかった」という後悔も、戦争について取材している理由の1つです。

また、別の取材のつもりが結果として戦争と繋がっているという場合もあります。例えば公害の四日市ぜんそくで幼い長女を亡くされた方を取材したことがあるのですが、この公害も、元は戦争から復興するために努力してきた中で起こったものです。戦争は単純にその瞬間命が奪われるというだけでなく、その後も様々な影響を及ぼすのだと感じました

受賞した『被爆地に立つ孤児収容所』という広島新生学園を取材したドキュメントも、元は原爆に無関係の取材から始まったものでした。訪れてみて初めて知ったのですが、広島新生学園はかつて2千人もの孤児たちを受け入れた孤児収容所だったのです。上栗頼登(かみくり よりと)さんという青年が26歳という若さで私財を投じて作った場所なのですが、原爆被害者にすらあまり知られていないような場所でした。自分が生きるだけで精一杯な時代に子どもたちに手を差し伸べた上栗さんの姿から、名もなき市民一人ひとりの努力によって、今の広島の復興があるのだと気付かされました。

他人の幸せの中に自分の幸せがある。世界が変わらずとも伝え続けたい

――講演会ではどのようなことをお話しされますか?

深井 講演会では、私が取材を通して出会った方たちのお話と、その出会いから学んだことや感じたこと、そして私自身の生き方についてもお話させていただきます。私が経験した様々な出会いのお話から、人と人との出会いを大切にしてほしいということを伝えていきたいですね。私の経験談が、進路に迷う子どもたちや保護者の方、教育関係の方などの参考になればと思っています。

――数々の出会いを経て、今、人生で大切にしていきたい思いは何ですか?

深井 取材を通して感じたのは、傷付けるのも人間であり、手を差し伸べるのも人間だということです。人間である私だからこそできることがある、ということは大切にしていきたいと思っています。

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもあなたはしなくてはならない。それをするのは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないためである」

これは私が好きなガンジーの言葉です。この言葉のように、私が伝えることで世の中は何も変わらないかもしれません。それでも声を上げないよりずっといいと思っています。動画や文章、漫画、音楽など、伝える方法はいろいろあります。どんな方法だろうと自分の意思を示すということは大切なのだということを、これからも伝えていきたいです。

――最後に、深井さんの夢をお聞かせください。

深井 私は、誰もが自分の居場所を持ち、人に手を差し伸べられる優しい世界になって欲しいと思っています。世界では今、命の危険にさらされている方も多くいらっしゃいます。私が伝えるだけでは何も変わらないかもしれませんが、自分自身が無関心になって変わってしまわないためにも、自分ができる方法で私は声を上げていかなければいけないと思っています。声を上げる人に対して否定的な意見もありますが、苦しみながら声を上げた人がいたからこそ、今の私たちの暮らしがあると思っています。

ロシアの文豪・トルストイの言葉にある「他人の不幸の上に自分の幸せを築いてはいけない。他人の幸せの中にこそ自分の幸せもある」ということを私も感じています。私はこれまで多くの人の生き方に触れられてきたからこそ、人間にとって人の幸せというものが大事なのだと知ることができました。誰もが自分の居場所を持ち、人に手を差し伸べられる優しい世界への一歩になるよう、これからも自分の経験を伝えていきたいです。

――貴重なお話をありがとうございました!

深井小百合 ふかいさゆり

元テレビ局社員(報道記者、ディレクター、デスク) Webライター

評論家・ジャーナリスト教育・子育て関係者

広島市出身の被爆三世。三重テレビ勤務時「女川の中学生が鈴鹿へやってきた」で中部写真記者協会賞優秀賞。テレビ新広島・報道部へ移り「被爆地にたつ孤児収容所-2千人の父、上栗頼登-」で日本民間放送連盟賞優秀賞。独立後、子育てをしながら、執筆、動画編集・撮影など幅広く活動中。

プランタイトル

若い世代が「原爆」を伝える

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