パレスチナ、イラク、シリア、アフガニスタン…これまで世界各地の紛争地で、戦地で虐げられた人々の日常を取材し、真実を世界に伝え続けているジャーナリストの藤原亮司さん。
ウクライナ戦争が悪化する中、改めて戦争の原因や民族間が抱える問題についてお聞きしました。
数々の戦地を見つめてきた藤原さんが考えるジャーナリズム論とは?
前編後編に分けてお伝えします。
■目次
「軍国少年」が感じた疑問、
そして将来の道を決めた、在日コリアンの友人との間に感じた溝
――まずは、ジャーナリストになるきっかけを教えてください。
藤原 小学生の頃から、旧日本軍の太平洋戦争について関心がありました。なぜ小学生で戦争に関心を持ったのかよく覚えていませんが、たぶんプラモデルで旧日本海軍の軍艦を作るのが好きだったからだと思います。その影響で、軍歌とかも聞いていたぐらいの、当時には珍しい「軍国少年」でした。
少年向けの太平洋戦争についての本もたくさん読みました。真珠湾攻撃やシンガポール陥落などの話は読んでいて面白かったんです。でも読み進めていくうちに、ガダルカナルだとかインパール作戦、マリアナ沖海戦など、子ども心にも「なんだこれは、負けるための作戦をやってるのか」と疑問に思うようになりました。なぜ日本軍はこんな無謀な戦争をしていたのかと周囲の大人に聞いてみても、明確な答えを得られませんでした。1970年代のその頃、日本は豊かになりつつあり、「そんな昔の話はどうでもいい」「終わったことを考えてみても仕方がない」という雰囲気があるように思えました。
では反戦を訴える人たちはどんな考え方なのかと、今度は共産党や60年安保、70年安保の学生運動などの本を読むようになったのですが、それも読み進めていくうちに、「内ゲバ」や「粛清」みたいな話になっていく。加えて、テレビで毎夏、原爆の日や終戦記念日になると平和活動家たちが、「二度と息子たちを戦争に行かせないぞ」と声を上げる姿が映し出されていました。どうもそれに違和感を感じていました。「日本人は被害者だっただけか?」と。日本軍が進駐していった国々では日本は加害者の面もあったはずなのに、なぜ「原爆を落とされた」、「国によって戦争に行かされた」、だからもう戦争はしない、という論調なのかと疑問でした。
それで次は海外に目を向けると、私は1967年生まれですが、中学生の頃にはレバノンでパレスチナゲリラがイスラエルに対して闘争を続けていました。当時はまだ子どもだったので詳しい背景は分かりませんでしたが、イスラエル建国によって国を追われたパレスチナ人たちが故郷を取り戻すための闘争をしているのだと見聞きしました。しかし、そのためにハイジャックをしたり、テロを起こす。レバノンの中で聖域を作っている。当時の自分には理解することができず、関心を持ち続けることができなかった。そのままバブル期を迎え、関心は他の方に向いていました。
20歳のころに在日コリアンの友人たちができて、「日本に住む外国人」という存在が気になるようになりました。日本人同士の付き合いでは感じたことのない、「生身の感情をぶつけ合う」ような彼らの人付き合いに惹かれました。一方で、毎日寝食をともにするくらい仲が深まるにつれ、民族や生まれてきた環境など、「超えられない溝」のような存在を感じるようになりました。何か意見の違いがあると「どうせ日本人には分からない」と拒絶されるようなことが増えてきて、しんどくなって、一旦離れることにしました。
――その「溝」とはどんなものなのでしょうか?
藤原 バックグラウンドの異なる人たちが感じてきた生きづらさとか、根強い差別や偏見とか、そういうものです。私の友人たちは、在日二世、三世で、最初に移住してきた祖父母からは本国の韓国人以上に韓国人らしくあることを求められたり…。
日本の中にも異文化があるのだと初めて知りました。同じ日本に暮らしながら、自分には知らない世界がある。ルーツの異なる彼らの存在に触発され、そこから民族や祖国、ルーツに興味を持つようになりました。
――そこから、ジャーナリストの道に進まれるわけですが、最初の取材したところはパレスチナだったんですよね?
藤原 20代後半でソビエト崩壊が起き、自分の知らないあちこちで世界を揺るがすような出来事が起こっていて、それを自分の目で見てみたいという気持ちもあり、1998年に初めてパレスチナに行きました。
その頃、カメラの使い方や取材のやり方もろくに知らず、ジャーナリストと名乗るほどの技術もなかったのですか、「ジャーナリスト」と言わないと取材するのに不便なので、一応そう名乗っていました。
でも、何の訓練も受けたことがない素人が行ったところで、取材なんてできるわけがない。結局、最初の「取材」は自分の無力さを思い知らされただけで終わりました。
――最初からなかなか上手くいくことはありませんよね。2回目の取材はどこに行かれたのですか?
藤原 2回目はコソボの難民キャンプを取材しました。その時初めて、新聞に採用されました。コソボ紛争の取材には2度行ったのですが、2度とも現在所属する「ジャパンプレス」の佐藤和孝と山本美香に現場で出会いました。そこで、「本気でジャーナリストになりたいなら、東京に出て写真をちゃんと撮れるようになれ」と、佐藤に言われました。帰国してからトヨタの期間工で数カ月住み込みで働き、資金を作って上京しました。
イスラエル兵による銃撃!負傷してから考えたこと
――コソボ紛争では、前線も取材されたのでしょうか?
藤原 いや、初めて戦闘を取材したのは、2002年のイスラエル軍によるパレスチナ自治区への大規模侵攻の時です。その時はイスラエル軍によるパレスチナ自治区への激しい攻撃があり、パレスチナ人は自爆攻撃などを行なっていました。
――「死」というリスクもありますが、それも覚悟の上で行かれたのですか?
藤原 その時は30代半ばで、あまり死を現実のものとは考えていませんでした。しかし、イスラエル兵に、軽症でしたが手足首を撃たれ、半日ほど拘束されたことがありました。
――それは、どういう状況だったのでしょうか?
藤原 パレスチナのガザ地区で農場を取材していました。その農場はユダヤ人入植地に隣接しているので、イスラエル軍の監視塔に近い場所にありました。なので、私は農場の入り口で車を降り、通訳と運転手を待たせて一人で取材に行きました。しかし、帰りが遅い私を心配した通訳たちが、車で迎えに来てしまった。監視塔からは、見慣れない車がやってきたことは丸見えです。「これは厄介なことになった」と思って、すぐに立ち去らないと思い、車に乗り込もうとしました。
そのとき、足元の地面にいくつかの砂埃が上がり、ほぼ同時に私の手の甲と足首に痛みが走りました。なんというか、やけどをしたときの痛みのようだったと思います。私たちは近くの農機具小屋に隠れましたが、すぐにイスラエル軍の装甲車が2台やってきて、農機具小屋に銃撃を始めました。銃撃が少し収まったとき、両手を上げて姿をさらし、イスラエル兵に日本人ジャーナリストであることを告げました。そのあと私たち3人は結束バンドで手首を縛られて拘束され、入植地内の基地に連れていかれました。
――その時は死への恐怖はなかったのでしょうか?
藤原 撃たれたのは初めてだったので、「実感がなかった」というのが正直なところでしょうね。それより、同行していたパレスチナ人の通訳と運転手の身の安全の方が気になっていました。私たちは基地内の別々の場所で尋問されましたが、私はとにかくパレスチナ人の通訳と運転手の安全を確保できるように交渉しました。
――このことをきっかけに、仕事を辞めたいと思うことはなかったのでしょうか?
藤原 そういうことは考えなかったですね。パレスチナは「自治区」といっても、年々ユダヤ人の入植地が広げられ、さまざまな権利や自由を制限された中での暮らしを強いられています。仕事にも就けない人も多く、海外に出ることも難しい。それどころか隣町に移動することすら制限されることがある。
そんな抑圧の中、パレスチナの人たちは、明日、来月、来年何をしようとか、将来何かをしたいとかを、自分で選択することもできない。そんな中でも彼らは暮らしを続けていかないといけない。抑圧に抵抗すれば「テロリスト」と呼ばれる。彼らをそのような境遇に追い込んだ背景をしっかりと捉える必要があると思います。だからこそ、パレスチナの人たちの現実を取材し続けたいと思いました。
戦争はどっちがどっちということはない
――よく戦争は「憎しみの連鎖」「報復の連鎖」と言われますね。
藤原 しかし、それもよくよく考えてみれば、何と何の連鎖なのでしょうか。パレスチナ人はさまざまな権利を制限され、押しつぶされるように生きてきた。「圧倒的な力」に対しての抵抗を、「連鎖」といえるのでしょうか。
――確かに、連鎖というと、双方向が関係しますが、イスラエル紛争は、一方的な弾圧が起因しています。結局、戦争や紛争の根本にあるものって何なのでしょうか?
藤原 イスラエルに限らず、中東をはじめ各地の紛争の原因を、民族、宗教や宗派対立と言われることが多いです。ただ、それらの多くは「後付けの理由」であって、多くの場合、一部の権力者が自分の権力や利益を維持するため、発火点となりやすい「宗教」や「宗派」対立を煽る、という場合が多いです。「宗教(宗派)対立」だという考えにとらわれてしまうと、その戦争の本質的な背景を見落とすことになってしまいます。
現在起きている戦争の場合、その多くは「どっちもどっち」ということではありません。例えば今年(2020年)2月から続くウクライナ侵攻では、ロシアが一方的に攻めてきた。「ウクライナ人がロシア系住民にジェノサイドを行なっていた」という話ももっともらしく語られていますが、それはロシアが一方的に言っている話であり、多方面から確証が得られた話ではありません。それにロシアの侵攻前、ウクライナ人はロシア軍に対して一発の銃弾も撃っていない。しかし、一方的に侵攻してきたロシア兵は多大な数の市民を殺しているわけです。これは殺人です。
戦争の理由を、民族や宗教紛争、外交問題など大きな主語でパターン化して語ってしまうと、何を追及すべきなのかわからなくなって、関心を持てなくなったり、自分に引き寄せて考えられなくなってしまいます。だから、私たちと同じ一人ひとりの市民が、「戦争によって大切な生命や生活を奪われている。それは圧倒的な力によって行われている殺人であり、破壊だ」と、小さな主語で語られるべきだと思うんですよね。
――「戦争は人殺しだ、やっちゃいけない」とシンプルに考えた方がよいのでしょうか。
藤原 圧倒的な力を持つ側、独裁政権だとか強権国家ですね。それによって攻撃されたり、抑圧されたりすることは、大前提として許されることではないと思っています。それに抵抗する人たちによる攻撃によって死傷者がでると、「どっちもどっち」論みたいなものが語られますが、そもそもの背景に何があるのか、をきちんと見極めることが必要だと考えています。
同僚の死、それでもジャーナリストを続ける理由
――2012年のシリア取材時に、所属されているジャパンプレスの同僚の山本美香さんがシリア・アレッポで殺害されるという悲しい事件が起きました。その時の状況を教えてください。
藤原 自分がこれまで戦争を取材して、自分に何かが起きるかもしれないと思うことはありましたが、それまでは基本的に一人で取材をしていたので、同僚の身に何かが起きるという想定はあまり考えてことはなかったです。
あのとき、私もアレッポで取材をしていましたが、佐藤と山本とは別行動でした。私が先にシリアに入り取材をしていて、彼らは少し遅れてシリアに入りました。山本がシリアに入る前に電話で話しましたが、その翌日以降は携帯電話がつながらなくなった。シリア政府が携帯の電波を妨害する、ということはよく行われていました。
2日ほど経っても携帯が使えないので、トルコの携帯の電波を拾って連絡してみようと、トルコ国境近くに向かいました。そのとき、たまたま水を買いに行った商店のおじさんが、「日本人の女性ジャーナリストが亡くなったらしい」と言ってきました。「山本以外には考えられない」と思いました。さらに国境に近づくと、トルコの電波を拾った私の携帯に、「藤原さんの同僚がシリアで亡くなられたとニュースで聞きました。ご冥福をお祈りします」と、日本の友人からショートメールが届きました。
――その時は悲しさや憤りのようなものを感じられたのではないでしょうか?
藤原 訃報が届いたとき、「ああ、やっぱり山本だったのか」と思いました。それからシリアを出て、トルコのキリスという町で佐藤と合流しましたが、メディア対応や帰国への準備に忙殺され、「何かを考える」余裕はありませんでした。
何らかの感情がわいたのは、遺体を帰国させるためにトルコの国営病院から空港へと山本の遺体を運ぶ車の中でした。夏の青空の下、オリーブ畑のなかの一本道を走りながら、「なんてのどかな風景なんだろう」とぼんやりと思っていました。ほんの何十キロか先では戦争が起きているのに、ここはこんなにも平和なんだ。「こんなに平和なのに、なぜここに山本の姿がないのか」と、そのときはまだ彼女が死んだことに現実味を持てませんでした。
――山本さんとは生前に、死の危険性について話したことはなかったのでしょうか?
藤原 山本とは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件直後のアフガニスタンと2011年の東日本大震災以外、一緒に取材にいったことはなくて、そういった話もしたことはありません。本来ならそういう想定はしておくべきだったのだと思いますが、基本私は一人で取材をしていましたし、佐藤と山本はチームで動いていました。なので、一緒に取材に行くことはないだろうと思っていました。たまに会う時も、取材に必要な情報交換はきちんとしますが、あとは雑談ばかりでした。
山本とはコソボ紛争のときに会って、そのあとも仕事のことで会ったりしていました。2006年に私が正式にジャパンプレスに加入してからも、私は一人で取材に行ってましたから、前述の2回しか一緒に取材をしていません。でも佐藤と山本と私は、他のジャーナリストとの付き合いもあまりなかったので、単なる同僚というよりも、家族か親戚みたいなものでした。山本が亡くなってからは私が佐藤と取材に行くようになりましたが、ここに山本がいれば頼りになるのにな、と思うことはしょっちゅうです。
――山本さんの出来事が自分に降りかかる可能性もあります。それに対しての恐怖心はないのでしょうか?
藤原 自分の身に何かが起きたときの想定はもちろんしています。よく「なぜ、危険を冒してまで取材に行くのか」と聞かれることがありますが、私たちは「危険を冒して」取材に行っているつもりはありません。戦争取材を仕事にするジャーナリストであれば「危険だからそこに取材にいかない」という選択肢はありません。そのためには、「危険だけれどもどうすれば安全を担保できるか」、ということを検討します。その結果、「やはり安全に帰ってこられないだろう」と判断すれば当然行きません。
消防士や海上保安庁の隊員も同じだと思います。彼らは「危険だから現場に行かない」という選択肢はないわけですよね。だから、危険に対応できる準備を整えたうえで仕事をするわけです。「危険を冒して」では決してない。人命救助を行なう彼らと我々はもちろん立場が違いますが…。
訓練と経験を積んだ登山家も、「安全に帰ってくるため」の準備を十分に行ってから山に挑むのだと思います。しかし、消防士や海上保安庁の隊員、経験豊かな登山家でも事故に遭うこともあるし、ミスを犯すこともあります。それは、我々ジャーナリストも同じで、いくら「安全を担保」して取材をしていても起きうることであると思っています。
私たちと変わらない
戦地の生きる人々の日常、そして想い
戦場ジャーナリスト、藤原亮司さんのインタビュー後編では、2015年の安田さん拘束事件、そして2022年のウクライナ取材での体験をもとに、日本におけるジャーナリズムの現状と平和に対する想いについてお聞きしました…
藤原亮司 ふじわらりょうじ
ジャーナリスト
1998年よりパレスチナ問題を継続取材、他に紛争や民族問題(シリア、イラク、ウクライナ他)、在日コリアン、東日本大震災や原発被害を取材。新聞や雑誌、テレビ(映像)、ラジオ(解説)等で発表。現場取材を重視し、講演では戦争や抑圧、国際情勢、国際報道の読み解き方などを分かりやすく解説。
プランタイトル
戦争取材と自己責任
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