アイドルレスラーの先駆けとして女子プロレス界に革命を起こし、引退後も芸能界で華々しい活躍を続けてきたマッハ文朱(ふみあけ)さん。約20年の海外生活を経て日本での活動を再開し、デビュー50周年を目前に迎えた今、これまでの活躍を振り返っていただきました。
60代になり人生がさらに楽しくなったと語るマッハさんの元気の秘訣とは?ぜひ最後までご覧ください。
きっかけは姉の第六感。母の涙と願いを胸に女子プロレスの道へ
――マッハさんは1972年に『スター誕生』というオーディション番組に出場されましたが、元々はアイドルを目指していらっしゃったのですか?
マッハ 『スター誕生』は本当に大人気の番組で、「本気で歌手になりたいわけじゃないけど、とりあえず応募してみよう」と応募する女の子がとても多かったんです。それで私も流れに乗って応募してみたら、あれよあれよと言う間に本選に出場することになって。だから、本気でアイドルになろうと思って応募したわけではありませんでした。
そんなきっかけでしたが、本選まで進むうちにだんだん合格したい気持ちが強くなっていきました。でも結果は不合格。プラカードが一枚も上がらず、13歳で現実を突きつけられたわけです。落ちた後、後楽園ホールの地下でプロデューサーさんに「君はいいものは持っているけれど、どっちつかずになってしまう。とても残念だね」と言われました。アイドル路線で売るには身長が高く、かっこいい路線で売るにはかわいらしいから落ちたのだと言うのです。
当時の私にとって身長が高いというのは自慢だったので、身長がマイナス要素になるということは衝撃でした。その言葉をきっかけに、「ならば、かえってこの体格や運動神経を武器にできるような職業に就こう」という気持ちが固まりました。
――その経験がプロレスラーの道へと繋がっていったんですね。
マッハ プロレスラーになったのは、女子プロレスラー募集の広告を見つけた姉が「あなた、プロレスラーになりなさいよ。時代を変えるかもよ!」と言ったことがきっかけでした。第六感の鋭い姉が言うならと興味を持ち、母には内緒で全日本女子プロレス協会に履歴書を送りました。すると、入団には保護者の同意が必要ということで、ある日協会の方が自宅までいらっしゃったのです。協会の方がお話しされる間、母はただ黙って座っていました。でも協会の方が帰られた途端、母はぼろぼろと泣き出したのです。
父を早くに亡くし、女手ひとつで私たち3姉妹を育ててくれた母は、「挨拶がきちっと出来、食べ物を粗末にせず、何事にも感謝の気持ちを持つ。ただそれだけでいい。他は何も望まない」というさっぱりとした人でした。そんな母が、「プロレス自体は立派なスポーツだからかまわない。でも女の子なのに顔に傷が付いてしまったらと思うとたまらない」と泣きながら話すのです。それを聞いて「ここまできたらやるしかない!」と決意しました。「やるなら悔いのないように、てっぺんを獲るつもりでやりなさい」と言ってくれた母の言葉を原動力に、入団からの3年半は、パジャマを着る代わりにトレーニングウエアを着て寝るほどトレーニングに明け暮れました。
人気絶頂の中での引退。女子プロレスに革命を起こした2年8ヶ月
――マッハさんはアイドルレスラーの先駆けとして大人気でしたが、最初からアイドル的なキャラクターでやっていこうと考えていらっしゃったのですか?
マッハ 最初は何の狙いもありませんでした。でも真剣にプロレスに取り組んでいくうちに、女子プロレスに対する世間からのイメージのマイナーさに気がついたのです。リングに上がる前には毎回「今日死ぬかも知れない」と恐怖で震えるほど命がけでやっているのに、世間からは暗いイメージで見られる。それが悔しくて、「絶対このイメージを変える!いつか女子プロレスラーを憧れの職業にする!」という使命感に燃えました。
――女子プロレスのイメージを変えるためにどのようなことをされましたか?
マッハ 女子プロレスでは女性ならではの「美」を見せることが大切だと感じていたので、衣装やメイクにもこだわりました。また、私が山口百恵さんと同じ回の『スター誕生』に出場していたことから取材依頼が殺到していたので、プロレスのイメージ向上になるならと朝から晩まで取材を受けました。でもそうした活動が「特別扱いされている」と受け取られ、先輩から嫉妬を向けられることも多かったです。まだ15歳でしたから、毎日泣きながら母に電話していました(笑)。
でもそうやって私の存在や女子プロレスの魅力を知っていただいたことで、徐々に会場に来てくださるファン層が変わってきたんです。男性だけだった観客席に女性が増えはじめ、お子さんやおじいちゃん、おばあちゃんまで来てくださるようになり、会場から人が溢れるようになりました。
――それだけ女子プロレス界の地位向上に尽力されたにも関わらず、人気絶頂の中、わずか2年8ヶ月で引退されたのはなぜですか?
マッハ 母は心臓が弱く、よく試合時間に心臓発作を起こしたり血圧が上がったりして入院することが多くありました。だから母を安心させてあげたいというのが、引退の一番の理由です。会場には人がたくさん集まるようになり、毎週ゴールデンタイムに試合がオンエアされるほど女子プロレスは人気になりました。私自身もチャンピオンになり、女子プロレスで目標にしていたことは2年8ヶ月ですべてやりきれたのです。やりたいことはやりきれましたし、「負けてベルトを奪われて引退するのではなく、チャンピオンのまま美しく引退したい」という思いもあったので、引退に迷いはありませんでした。
特に進路を考えず引退したのですが、テレビ局の方からたくさんお声掛けいただいたので芸能界に進みました。「1年くらいは物珍しさで忙しくなるけど、1年を過ぎたら忘れられるよ」と言われたこともあり、「それならそれでいいや。やれるだけ頑張ろう」という気持ちで入った業界ですが、おかげさまでもう50年も経っていましたね(笑)。
好きなことをやり続けて迎えた60代。全てに感謝し、人生を楽しむ
――20kgのダイエットに成功したご経験があるそうですね。
マッハ あるとき私のための書き下ろしのドラマのお話がきたのですが、脚本家の方から「痩せる予定はありますか?」と聞かれました。今までに頂いたことのないお話しと設定でしたので、役作りのためにダイエットを決意し、20kg痩せました。私が痩せた方法は、ハトムギを使用したダイエット法です。でも最初はダイエットのためではなく、ニキビ改善のために飲んでいたものでした。プロレスラー時代に色々な病院に通ってもニキビが良くならず困っていたところ、姉が勧めてくれたのが、毒素を排出する効果があると言われているハトムギ茶だったんです。飲み始めてからニキビがだんだん改善されていったので、愛飲していました。ダイエットを始めてからハトムギ茶に加えて食事改善や運動もしていったところ、どんどん痩せていったんです。20kgも痩せたので問い合わせが殺到し、本を出版したりオリジナル商品を販売したりするほど話題になりました。
――マッハさんは芸能界でも人気絶頂だった中で留学をされ、世間を驚かせましたね。どのような留学経験でしたか?
マッハ 最初のきっかけは、芸能界でいろいろなことをやってきたことから「何かほかに面白いことはないかな」と思っていたところ、母に「海外に住みたいって言っていたじゃない。行ってみれば?」と言われたことです。1年間の語学留学にはじまり、2つの4年制大学で健康心理学と経済学も学びました。しかも、仕事が忙しすぎて両立が不可能のため高校を休学していたままだったので、まずは高校をきちんと卒業しなければなりませんでした。そこで28歳のときに(高校)2年生から入学し直し、30歳で卒業してからアメリカの4年制大学へ留学しました。
最初は1年間の語学留学でしたが、誰にも準備してもらわず単身留学しました。滞在先も自分で見つけましたが、同室の子は外国人だったので英語を話すしかない状況でした。もちろん最初は何を言っているのかまったく分かりませんでしたから、毎日誰かを見つけるたびに「Excuse me?」と話しかけたんです。そうしているうちに理解できるようになり、半年ほどしたら話せるようになりました。よく好きな国に留学をしても結局、日本人で固まって現地の言葉に触れない人もいますが、もったいないですよね。留学したのなら、もっとその言語に触れていくことが大切だと思います。
――マッハさんは様々なことに挑戦され、人生を楽しんでいらっしゃるように見えますね。
マッハ 60代に入ってからもっと人生が楽しいと思うようになりました。それもこれまでお仕事も含め、好きなことをたくさんやらせていただいてきたおかげだと思っています。これまで色々とやってきたことで、自分が本当にやりたいことも見えてきました。母と姉が急逝したことも大きいですね。人生何が起こるか分からないと実感し、妹と「遺された私たちは、毎日楽しいと思える時間を作らなきゃね」と話しあいました。
人生は大変なことが山積みですから、落ち込んでいるときには「なんで私だけこんな目に…」と思うこともあります。でも私は「悔しいからもっと笑ってやる!」と思い、落ち込んだ気持ちをエネルギーに変えるようにしています。ときには嫌なこともあるけれど、すべてのことに感謝し、大切にしていくことが、生きる上で大切だと思っています。
マッハ文朱の最終章へ。50年間支えてくれた方々に恩返ししたい
――講演会ではどのようなお話をされていらっしゃいますか?
マッハ 健康をテーマにした講演や、留学経験からの生涯学習をテーマとした講演をさせていただくことが多いです。2024年がデビュー50周年という節目の年ということもあり、プロレスデビューからはじまり、留学や、国際結婚、レストラン経営をしてきた現在までのお話をテーマとした講演も行っています。ダイエットをテーマとした講演も多いですね。また、新しくチャイルドコーチングの資格を取得してボランティアで子どもたちの指導もしていますので、そういったお話もしていけたらと思っています。
――最後に、マッハさんの夢をお聞かせください。
マッハ みなさまの応援のおかげで、来年でデビューから50年を迎えることができました。約20年間日本を離れていましたが、信じられないくらい多くの方にお声掛けいただき、感謝の気持ちでいっぱいです。50年目を迎え、マッハ文朱の最終章の扉が開いたように感じています。
そこでこれまでの経験を書き出し、自問自答したところ、何をするのが一番幸せなのかが見えてきました。それは、みなさまの元にお伺いして、直にマッハ文朱と出会っていただいて、お話を聞いていただいたり、歌を聴いていただいたり、一緒に体を動かして踊っていただくことです。そうすることが、これまでマッハ文朱を応援してくださったみなさまへの”恩返し”、”元気返し”、”パワー作り返し”に繋がっていくんじゃないかと思っています。これからみなさまにお会いできることを心待ちにしております。
――貴重なお話をありがとうございました。
マッハ文朱 まっはふみあけ
タレント
15歳で女子プロレスデビュー。引退後はタレントに転身。 その後、アメリカの大学で健康心理学や経済学を学び、アメリカを拠点にスポーツバーなどを経営。現在は日本に拠点を移し、タレント活動の傍ら講演活動にも力を注ぎ、独自の健康法や、常に居場所を求め続けてきた波乱万丈の人生を語る。
プランタイトル
トーク&ライブ
『マッハの元気が1番!』
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