モルガン・スタンレー、Googleなど国際企業で人材育成畑を経験し、現在は、プロノイア・グループ株式会社 代表取締役、株式会社TimeLeap取締役、株式会社GA Technologies社外取締役を務めるピョートル・フェリクス・グジバチさん。従来の働き方の概念を壊し、新しいビジネスを展開する「ニューエリート」」など独自の視点で、これからの未来を想像する組織開発と人材育成のパイオニアとして活躍しています。

そんなピョートルさんに、これまでの人生を振り返っていただき、ビジネスパーソンがこの変革の時代を生き抜くためのヒントについてお聞きしました。
ビジネスだけではなく、人生の哲学にもなるお話しが満載のインタビューを前編・後編でお届けします。

■目次

動乱の最中、教育の大切さに目覚めた学生時代

――ピョートルさんはポーランド出身ということで、どんな子供時代を過ごされたのでしょうか?

▲子ども時代のピョートルさん

ピョートル 僕は1975年にポーランドで生まれました。当時のポーランドは共産主義でソビエト連邦に支配されていました。1981年に独立自主管理労働組合「連帯」は民主化運動をし始めたため、12月13日戒厳令が敷かれ、1983年までポーランドは北朝鮮のような国でした。世界の国々から経済封鎖され、ポーランドは孤立化していました。

80年代に食料配給制になって、母は毎月区役所に足を運び、食料引換券をもらっていました。スーパーに置いてあるのはパンとお酢だけ。たまに店先に肉が並ぶと、皆我先にと引換券を手に持って店に押し寄せ、店の前には長蛇の列ができていたのを思い出します。配給される食料は十分ではなく、当時の僕は常に腹を空かせた状態でした。

――過酷な状況だったのですね。そこから、高校、大学に進むまでにはさまざまな苦労があったのではないでしょうか?

ピョートル 僕は(当時)50人しかいない小さな山の中の村で、父母、兄2人の5人家族の中で育ちました。当時、小・中学校を卒業したら職業学校に行き、そこから国営企業で働くパターンがほとんどでした。周りに、大学はおろか高校に進学した人は1人もおらず、10才と11才上の兄も、普通に職業学校を卒業後、国営企業の労働者として働いていました。

ただ、父と兄は読書家で、家にはたくさんの本が置いてあり、その影響で僕は本好きな子どもになっていました。私をかわいがっていた長兄が、次々と私に本を買ってくれたこともあり、高校に進学してもっと勉強したいと思うようになりました。

中学最後の年に周囲に「高校に進学したい」というと、友達や親戚から「職業を身に付けられもしないのに、馬鹿なことだ」と嘲笑されました。共産主義だったので、職業学校卒業後には国から仕事が保障されており、大学卒業でも給料は労働者と同じ。むしろ、労働者が優遇されているような環境でした。

しかし、僕はニュースなどをよく見ていたので、近々共産主義が終わるのではないかという直感がありました。だから外国に脱出することを考え、語学を学ぼうと思いました。

共産主義の次は資本主義がくる、そうなったら教育が重視される…

小さいながらにそう確信していました。まさに時代を先読みしていたんですね。
それを家族に話すと、皆賛成してくれました。

――そこで村初めての高校生が誕生したわけですね

ピョートル そうですね。ちょうど高校入学した1989年に議会選挙で共産主義政権が敗北し、鉄のカーテン(西欧側と共産諸国を区切った壁)が消滅しました。周りの人たちは「資本主義になってポーランドも豊かになる」と喜んでいました。周りの町にあった国営工場は、隣国ドイツなどの企業が安い価格で引き取り、民営化され、村の皆は「給料が上がる」と思っていました。

ところが、民営化した外国企業は、ポーランドにある工場を次々と閉鎖し、外国産の商品が輸入され、市場が独占されるような状況になりました。その結果、僕が住んでいた地域の失業率が急激に増えて、ほとんどの村人が仕事を失った。物価も高くなり、絶望的な状況になったのです。だから、僕は高校3年の時、一度進学を断念しました。

――えっ? 1度は高校を退学されたのですか?

ピョートル はい、高校をやめてからドイツに渡り、ポーランド人の労働者を採用していた農業派遣会社で出稼ぎをしました。当時は、僕は1日で、父の給料(約7000円)の2~3倍も稼ぐことができました。
しばらくして、母が病気になり、実家に戻ることになりました。すると、病床の母に「お前は勉強が好きだったんじゃないの?」と言われ、自分は何をやっているんだろうと後悔しました。だから、またポーランドに戻り、高校に復学しました。そこから猛勉強して、大学に入学しました

――やはり、教育の重要性を再確認したということでしょうか。

ピョートル そうですね。実際大学を卒業したポーランドの友人・知人は生活水準を上げる一方、高等教育を受けられなかった人々はいまだに失業中です。

実は、僕が高校に復学した頃、長兄も失業し、アルコール依存症になりました。兄は酒を飲んでは僕にいつも「自分の人生なんて意味がない」と言っていました。だから、僕は兄のために大学で心理学を勉強して助けてあげたいと思っていた。そんな矢先、僕が大学2年の頃(1997年)に、兄は真夜中にお酒を飲んで酔っ払い、車に轢かれて亡くなりました。大変ショックな出来事でしたが、逆に僕は「人生に意味をもたらすしかない」とも思いました。

――だから、現在「人の人生に意味をもたらす」人材育成という道に進んだのでしょうか?

ピョートル そうです。兄は変化を予測できずに、時代の潮流にのまれていきました。だから、僕は、時代の変化の予測は難しいですが、自分なりに先読みをして、その変化に耐えられるよう責任をもって準備する。それを自分のミッションと考え、仕事にしようと考えたのです。

広報から人材育成の道へ

――大学卒業後は、何をされたのでしょうか?

ピョートル 大学卒業後、私はヨーロッパを出たことがなかったので、もっと他の国を見てみたいという気持ちがありました。そんな頃、日本の文部科学省が研究職を募集しているのを知り、応募して採用され、2000年に初めて来日しました。千葉大学で「ブランドと消費行動」を研究し、広報関係の仕事に就きました。

――そこではどのような仕事をされたのでしょうか?

ピョートル web広告を売ったり、売り方の戦略を考えたりする通常の広報業務です。ただ、広報をしていると、人材育成の壁にぶち当たりました。

例えば、高級マンションを売ろうと思うと、まず、やることは宣伝活動ですよね?
最初にマンションの外観・内観をきれいに飾り付けて、撮影し、それをチラシやweb広告に使って、宣伝します。それを見たお客さんが実際に見学に来ると、「想像していたより狭かった」とか「周囲の環境が悪かった」「住んでいる人たちの柄がよくない」ということに気が付き、買わないということが生じます。

それでは、逆に、チラシや広告は打たなくて、そこに住む人々の生活環境を整えてあげたり、住んでいる人たちがコミュニティを築けるようにサポートしてあげることに専念します。すると、特別に広告を打たなくとも、そこに住む人々が「このマンション素敵だよ」「今、隣が空いているみたい」と口コミで宣伝してくれるのです。

いかにかっこよく宣伝したとしても、実際に住む人が「いい」と感じなければ売れるものも売れません。
それは会社組織にも言えることで、中で働く人間が「働き甲斐がある」「働きやすい」と思わなければ、会社イメージもよくなりません。また、組織が、各個人が持つポテンシャルを発揮し、自己実現ができるような環境であれば、より高い結果が出せるようになります。

広報に投資するより、内部の組織作りに投資した方がよいと思うようになり、私は広報の後、人材育成やリーダー育成プログラムを担当するようになりました。

それからは、一人に何かを教えるのではなく、多くの人が自分の能力を理解して自己実現できる仕組みづくりをしています。それが今では僕の得意分野となっています。

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ピョートル・フェリクス・グジバチ

プロノイア・グループ株式会社 代表取締役 株式会社TimeLeap 取締役

経営者・元経営者コンサルタント

ベルリッツ、モルガン・スタンレー、Googleなどグローバル企業での人材育成分野にて活躍。2015年に独立し、現在、プロノイア・グループ株式会社 代表取締役、株式会社TimeLeap 取締役を務め、組織開発、人材育成、働き方改革のコンサルティングなどを手掛けている。

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