
前後編にわたってプロレスラー・蝶野正洋(ちょうの まさひろ)さんの強さの裏側に迫るロングインタビュー。後編では、奥様と共に経営するアパレルブランドや社会貢献活動など、蝶野さんのプロレスラー以外の活動について伺いました。
プロレスラー、経営者、活動家。様々な立場で人を導き、守ってきた蝶野さんにとって強さとは何か。60歳を超えた今だからこそ見えてきた、蝶野さんの新たな生き方をご覧ください。
“蝶野正洋”が中心軸。不安の中で始めた妻との会社経営

▲cap/自身が経営するアパレルブランド「ARISTRIST(アリストトリスト)」でモデルを務める蝶野さん。アリストトリストでは、黒を基調としたカジュアルなアイテムやスタイリッシュなスーツなど、様々なアイテムを取り扱っている。(アリストトリスト公式サイトより)
――蝶野さんはアパレル企業のアリストトリスト有限会社も経営されていらっしゃいますよね。そもそもアパレル企業を立ち上げたのはなぜですか?
蝶野 きっかけは怪我ですね。自分なりにセーブして活動してきたつもりでしたが、’97年頃に3度目の大きな首の怪我を負ってしまったんです。
会社には隠していましたが、医者には「首から下にいつ麻痺が起こってもおかしくない。今すぐ手術をしてプロレスを辞めなさい」と言われていました。日本だけでなく、アメリカやドイツの病院でも診てもらいましたが、その診断結果は変わりませんでした。
プロレスラーになって初めて長期休暇を取り、5ヶ月ほどで復帰しましたが、それからは1試合ごとに「これが最後になるかもしれない」と思うようになってしまったんです。
「現役でいられるのは長くないな。次はどうすべきだろう」と考えた結果が、妻と共にアパレルブランドを始めることでした。
――会社を経営していく上で心がけていらっしゃることはありますか?
蝶野 経営についてはまだまだ勉強中です。会社は25年続いていますけど、失敗も多くて負け越しているようなものです。でも、ビジネスはたとえ負け越していても継続していくことが大切なんだと、周りを見ていて思います。
最初のうちはスポーツブランドであることへのこだわりもありましたが、続けていくうちに、経営の柱は1本ではなく何本も持っておかなければいけないんだと分かってきました。レスラーの時と一緒ですよね。リングだけ見ていればいいってもんじゃない。
多様性の時代に変わってきていますから、そこに乗り遅れないことが重要だと思っています。新しい情報には敏感でありつつ、どのタイミングでその波に乗るかを見極めるということを繰り返しているような気がしますね。
――たとえ柱が1本倒れても立ち続けられるよう、新しい挑戦をしながら様々な軸を増やしていらっしゃるのですね。
蝶野 でも基本的には、“蝶野正洋”という中心軸があるんでね。ただ、俺ももう60歳を超えたので、今度はこの年齢としての見せ方を考えなきゃいけない。これは逆に、今しかできないことですしね。
年を取ったのはお客さんも同じです。25年続いたブランドなので、当初30代だったお客さんも50代以上になっています。顧客を見続けて、顧客の変化に合わせてブランドのコンセプトを変えていくことも重要だと思っています。
――奥様と二人三脚で経営されていらっしゃいますが、夫婦経営だからこそのご苦労もあったかと思います。仕事と家庭を両立していく上で、ルールなどはありますか?
蝶野 夫婦での経営も、ようやくうまくいく方法が分かってきたように思います。舵取りが二人いるわけですから、しょっちゅうぶつかって喧嘩していました。逆に舵取りが1本になれていれば、もう少し苦労も少なかったように思います。
それに、妻は外国籍です。子どもに関する手続きなど、妻ではできない部分もあり、俺の動きの遅さなどにストレスを抱えることも多かったように思います。これは国際結婚した夫婦の間では、よくある問題かもしれませんね。
夫婦で役割分担をすると、「どちらがどれだけやっているか」で競争のようになって揉めてしまうこともあるんですよね。だから俺は、まず妻に対して感謝や愛情を示すようにしています。妻は、日本というアウェイで生きてくれていますから。
そう思うようになったことで妻のことが前よりもっとかわいく思えてきたし、それを口にするようにもなってきました。口に出すことで、喧嘩の種が生まれにくくなったように思います。
前はパパとしての蝶野正洋と外での蝶野正洋の割合が1:4くらいになっていて、妻の気持ちをちゃんと考えられていなかった。だからその立ち位置が原因でモヤモヤしていたんだと思います。
それに、基本的にビジネスとは、生きるためのものですよね。自分たちの生活をいかに楽しく、豊かなものにしていくかということを目標にしていけば、共に経営するパートナーとしてうまくやっていけるように思います。
ただ気をつけなければいけないと思っているのは、物事に対する欲が減っていくことです。年を取って食べられる量が減ったように、若い頃と比べて自分ができることも少なくなってきましたが、「自分ができるレベルでいい」と思っていては目標も低くなってしまいます。
だからこれからも欲や目標はキープし、自分ができない部分を子どもたちや社員たちに広げていくという考え方が必要になっていくのではないかと考えています。2010年からAEDや防災などの啓蒙活動に携わっていますが、そういった社会貢献活動が、欲や目標をキープする上で1つのモチベーションになっています。
そういった活動の広告塔として選ばれるのは、社会に対し影響力があると考えられている人物なんですよ。そこに選ばれるというのは励みになりますし、自分だからこそ言えるコメントもあると、やりがいも感じています。
俺にとって啓蒙活動は単にお金を稼ぐためだけの仕事ではなく、今の自分の立ち位置を知ることもできて大きなやりがいを感じられる、新しい活動の柱になっているんです。
「自分もいつか…」仲間の死への恐怖から始めた命を救う活動

▲蝶野さんは一般社団法人ニューワールドアワードスポーツ救命協会の代表理事も務めており、救命や防災に関する啓蒙活動に取り組んでいる。(一般社団法人ニューワールドアワーズスポーツ救命協会公式サイトより)
――AED救命救急や地域防災の啓蒙活動を始められたきっかけはなんでしたか?
蝶野 きっかけは2009年にライバル団体のNOAH(ノア)の代表であった三沢光晴社長がリング上で亡くなったことです。事故を聞いてすぐに「これは過労死だ」と思いました。
三沢社長は選手としてトップを張りながらNOAHの経営もされていたんですが、経営難にかなり悩んでいたことを聞いていました。後日知ったことですが、首に大きな怪我も抱えていたそうです。
2005年には橋本真也選手も似た状況で亡くなっていたこともあり、三沢社長の話を聞いて恐怖心が湧きました。自分も大きな怪我を何年も抱えながら、新日本プロレスの取締役もやっていましたからね。「これは自分もどこかで…」と不安を感じていました。
そのため三沢社長が亡くなってからは業界の改善に動いていたんですが、2010年に退団してからは1人でどう活動すればいいのかが分からなくなってしまったんです。
そこでプロレス業界で定期的に行われている救命救急講習を改めて受けてみたところ、東京消防庁の方に「AEDの普及活動を手伝ってほしい」と声をかけていただいたのが活動のはじまりでした。防災に関しては、その翌年に発生した東日本大震災をきっかけに消防の方からご紹介をいただいたのがきっかけです。
――具体的にどのような活動をされていらっしゃるのでしょうか?
蝶野 基本的には広告塔となって、幅広く救命や防災について知ってもらうための啓蒙活動を行っています。
消防は消防署に勤務する消防士だけでなく、地域のボランティアである消防団員も一緒になって活動が行われています。ただ、現在の消防団員数は最盛期の半分以下(※1)
で、団員の減少や高齢化により機能できていない消防団も増えているんです。
実際、能登半島地震では消防団が人員不足により十分機能できず、警察や自衛隊の動きにも支障があったそうです。日本では「何か災害などがあれば行政が助けてくれる」というイメージがあると思いますが、実際は救急車や消防車は数万人に1台の割合でしか設置されていません(※2)
。
「国がなぜきちんと公助を行わないんだ」と言われがちですが、公助は自助があってこそ成り立つものです。だから“まずは自分で備えることが大切”だということを特にお伝えしています。
立場的に消防署などの公的機関からは言いづらいこともあるので、そういった防災や消防の実情を伝えていくのが、俺の役割なんだと思っています。
※1 参照:総務省消防庁資料「附属資料2-1-2」
※2 参照:総務省消防庁資料「第15条救急自動車」
強さとは余裕。親父世代は自分と周囲を労るペースメーカーであれ

▲CAP/蝶野さんの講演会の様子。講演会ではリーダーシップ論や救命、防災など、自身の経験に基づいた様々なお話をされている(画像:蝶野さん提供)
――蝶野さんは様々な強さを持っていらっしゃるように見えますが、蝶野さんにとって“強さ”とは何ですか?
蝶野 自分に余裕があり、その余裕を困っている人のサポートに使えることが“強さ”ではないかと思います。
例えば道の合流地点で譲り合って1台ずつ合流することで渋滞を緩和できる(※3)
そうですが、そうやって少しでも余裕を持って他者に優しくすることで、社会が活性化する部分もあるんじゃないかと思っています。
でも、余裕を持つことを意識してきたのも最近のことです。若い頃は自己中心的で準備不足のまま挑むことも多く、多少無茶をしても「なんとかなる」と思っていましたし、実際なんとかできていました。でもそれって、周りの人に迷惑をかけていることもありますよね。
若い頃はそんな生き方でもいいと思いますけど、年を取ったらそんな生き方はできなくなりますよね。昔は100キロで走れていたのに、今は40キロを維持するような走り方をしていかなければいけない。そんなオンボロ車のようになっているわけです。
我々のような親父世代はもう100キロでは走れませんが、余裕を持ったペースメーカーのような役割になっていけばいいんじゃないかと思っています。
※3 参照:NEXCO中日本プレスリリース
――講演会ではどのようなお話をされていらっしゃいますか?
蝶野 安全対策に関するご依頼をいただくことも多いですし、最近は国際結婚や世代・性別といった男女共同参画に関するご依頼も増えていますね。
例えばプロレス興行での経験を通して熱中症対策のお話をするなど、ご希望や状況に合わせて、経験談を交えた様々なお話をさせていただいています。
プロレスラーはキャリアやコンディションなど、選手が抱えている状況は人それぞれです。だから管理側が思い描いている対策ではうまくいかないことも多くあります。
大きな興行では選手もスタッフも初対面の方ばかりのことも多いですから、その時しか知らないような人たちをいかに使っていくかを考えなければいけません。
そういった状況で経験してきたリーダーシップ。それから一人ひとりに目を配る方法。そして様々な状況でのアクシデント対応の方法などを、安全対策としてお話させていただいています。
講演を聞かれる方は、プロレスファン世代の40~50代が多いですね。その世代にはプロレスつながりのお話をしていますし、20~30代の若い世代には『ガキ使(ダウンタウンのガキの使いやあらへんで)』などのバラエティでのお話をしています。
――講演会で特に伝えたいメッセージはありますか?
蝶野 基本はやっぱり、自分を大切にするということですよね。健康で余裕があれば、救命もできるし防災も手伝えます。
自分のコンディションが良く、チームの一員として動いていれば周りに迷惑をかけませんが、コンディションが悪いのに無理して動いてしまえば、逆にチームが傾いてしまいますから。
自分を大切にすることは仕事でも現場でも基本となることなので、その重要さを伝えていきたいです。
――貴重なお話をありがとうございました!

なぜ蝶野はヒールになったのか
悪役の顔に隠された葛藤と選択
前編は、ベビーフェイス(善玉レスラー)からヒールに転向した理由についてお聞きしました。人気絶頂の中、なぜあえて悪役になることを選んだのか。蝶野さんの強さやカリスマ性の源に触れる、苦悩と葛藤のストーリーをご覧ください。
蝶野正洋 ちょうのまさひろ
プロレスラー
1984年新日本プロレス入門、同年プロデビュー。2010年フリーとなって以降も絶対的な存在感を放ち、黒のカリスマとしてプロレス界に君臨し続けている。また、「AED救急救命」ならびに「地域防災」の啓発活動にも尽力。テレビ出演、講演活動など、幅広い分野で活躍中。
講師ジャンル
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ソフトスキル | リーダーシップ | モチベーション |
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意識改革 | |||
実務知識 | 医療・福祉実務 | ||
社会啓発 | 男女共同参画 | 防災・防犯 |
プランタイトル
蝶野正洋のリーダーシップ論


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