思春期の頃、「自分は生きていてもつまらない人間だ」「自分なんかいなくなった方がよい」と悩んだ経験は、だれしもあるのではないでしょうか。

高校時代に不登校を経験した森源太さんも、そのときは夢もなく自己否定感に打ちひしがれたといいます。不登校を経て、大学時代にシンガーソングライターとなることを決意し、一念発起して上京。そこで花開くこともなく、このままではいけないとママチャリで日本一周ストリートライブの旅。

自己否定と肯定を繰り返し、かっこ悪い自分も包み隠さず等身大で語る森源太さん。
自分の心を歌でストレートに表現する森さんの講演ライブは、多感な中高校生たちの心に響き、大きな反響を呼んでいます。

そんな森さんの魅力に迫るべく、インタビューを敢行しました。
森さんの人となり、そして魂を感じることができたインタビューを前編と後編でお届けします。

■目次

部活が終わりプツンと心の糸が切れた高校時代

――まずは森さんという人物のバックボーンを知るために、これまでの道のりについてお聞きしたいと思います。小中学校はどんなお子さんだったのでしょうか?

 自分が生まれ育った場所は長崎のベットタウンで、程よく自然もあり、外で駆け回っていた記憶があります。学校では、国語が得意な少年で、中学校になるとハンドボール部に入り、部活に熱中していました。でも、中学時代に走り過ぎたので、高校では走らないでいい「柔道」を選びました(笑)。

――活発なお子さんだったような感じがしますが、プロフィールには「高校時代に不登校になった」とあります。なぜ不登校になったのか、その経緯を教えてください。

 僕の高校は進学校で、自分は部活のために学校に行っていたようなもんでした。
クラスでは友達は少なかったけど、部活は皆仲良くて、本当に楽しかったです。高3の6月に最後の試合が終わると、いよいよ大学センター試験に向けて勉強が始まりました。
でも、部活が終わった瞬間、糸がプツンと切れたみたいに、やる気がなくなってしまった。クラスに気の合う友達もいないし、行きたい大学もない。だから、一回学校をさぼったら、これまで頑張ってきたことがきつくなって、それから学校を休みがちになりました。

――ご家族や先生の反応はどうだったのでしょうか?

 当時の担任から「学校に来い」と強制されたことはなく、休んでも卒業できるギリギリのところで出席日数を調整してくれたようです。
父は会社員で、母は看護師をしていたのですが、母のシフトは冷蔵庫に貼ってあり、スケジュールを把握できていました。(母が)日勤の時には、学校に行ったふりして公園でさぼったり、夜勤明けで母が家にいる時は、仕方なく学校に行ったり…親にばれないようにしていました。後から聞いた話ですが、その時、僕が学校をさぼっていたことに母は全く気づいていなかったようです(笑)。

――お母様も育児と仕事の両立が難しかったのかもしれませんね。

 母は大学病院で働いていて、父は家事を一切しない人だったので、めちゃくちゃ忙しかった。毎朝、僕と弟の弁当も作っていたし…。僕が大人になってその話をすると、「(当時は)子どもたちのことをちゃんと見れていなかった」と話しています。

――不登校が続き、大学は受験されたのでしょうか?

 行きたい大学がないといっても、進学校だったので、センター試験は入るもんだと思っていて、塾は続けていました。文系が強く、数学は苦手だったんですが、その時のセンター入試はたまたま国語が難しくて、数学が簡単だった。それで奇跡のような点数がとれまして、佐賀県の大学に無事入学できました。

趣味が夢に変わった瞬間

――大学入学されてから、音楽の道に入ることになったと聞いています。

 そうなんですよ。高校の頃から長渕剛さんとか尾崎豊さんのファンで、お小遣いは全て彼らのCDにつぎ込んでいました。高校時代はカラオケも1回しかいったことなくて、全く音楽の道に進むなんて考えてもいませんでした。しかし、大学に入学してから同郷の友達ができて、ある日、アコースティックギターを持って尾崎豊さんの「十五の夜」を歌ったわけですよ。「なんてかっこいいんだ!」と思いまして…。
「友達にできるくらいなら、自分もできるだろう。女子にももてたいし…」というような不純な動機で始めましたが、それから(音楽に)のめり込んでしまいました。

――最初にステージに立ったのはいつ頃だったのでしょうか?

 その前から路上では演奏していましたが、最初にステージに立ったのは確か大学3年生の時で、近くの大学の文化祭でした。1人では恥ずかしかったので、友達3人で演奏しました。ハモるわけでもなく、皆が主旋律を歌って、コードもバラバラ…という悲惨な結果に終わりました(苦笑)。

――路上で演奏されていたということですが、いつ頃始めたのですか?

 最初はアパートで練習していたら近所から「うるさい」と苦情が来て、それで駅前で練習するようになりました。通勤通学の時間帯を除けば、人っ子1人いないので、練習しやすかった。練習しているうちに、ストリートミュージシャンの友達もできて、そこから「どこどこの大学でコンサートがあるから出てみない?」と誘われるようになりました。

――本格的に音楽の道に進もうと思ったのはいつぐらいだったんですか?

 やはり大学3年生で就職を考えなくてはならなくなった時期です。周りが就職先を次々と決めていく中、何かしたいこともなければ、自分にも自信がなかった。むなしく時間だけが過ぎていきました。

そんなある夜、佐賀の駅前でいつものように演奏していたら、通りがかりのサラリーマン風の男性に「オリジナル曲はあるの?」と聞かれました。その時、たまたま前日に、有名な曲のコード進行を真似ながら、自分なりに歌詞を重ねてみました。外に出す自信はなかったのですが、なんかその時に「今、出さんでいつ出すとや?」と思って…。思い切ってその男性の前でオリジナル曲を初めて演奏しました。

演奏が終わった後、その男性から「歌もギターも下手だけど、君の歌はストレートに伝わってくるんだよね」と言われまして…。その方は、昔東京で音楽関係の仕事をしていたこともあるらしく、「私は今まで色んなミュージシャンを見てきたけど、君ほど素直に自分の想いを曲にできる人はいなかった。これは君の才能だよ」と言って、お金を500円くれました。

僕はそれまで音楽でお金をもらうという感覚がなかったので、感動で膝が震えました。その時に初めて「好きな音楽をしてお金をもらえれば楽しいだろうな」と思うようになりました。これが「夢」ってやつなんじゃないかと。

高校時代にテレビで競馬を見るのが好きで、競馬関係の仕事につきたいと思った時期はありましたが、すぐに諦めてしまった。そのことへの後悔もあり、「なんで自分なんかに生まれたんだろう」と自己否定にもつながっていた。不登校で、意気地なしで、人の事ばかり妬んでばかりで…。
このままでいたら、ずっと自分を否定するだけの人生で終わってしまう。でも、それじゃあダメだと。「今逃げたら、絶対後悔する」と一念発起して、まず周囲に「プロのミュージシャンを目指す」と公言しました。

一応卒業はするけれど、就職はせずに、プロのミュージシャンになるために上京することにしました。

――親御さんの反対はなかったのでしょうか?

 親の反対はありませんでした。むしろ母は「あんたの人生はあんたのもんやけんね。」と賛成するような言葉をかけてくれました。自分としては、母は絶対反対するだろうし、それを口実に音楽に失敗したら母のせいにすればよいという打算的な考えもありました。
だから、母の言葉は意外で、驚いていると、母が言葉を続けました。

「ただし、大学は卒業しなさいよ。大学の間の授業料や仕送り、家賃は、親の責任として卒業するまでは払う。でも、卒業したらあんたの人生に一切口は出さん代わりに、一銭もお金は出さん自分の足で立ちなさいよ。」

母は、「自分で決めた人生だから自分で責任をとりなさい。失敗して転んで辛い目にあっても、全部が自分の糧になる。自分の道を自分で決めて歩いていきなさい」と僕を信じて、突き放しました。

当時は「突き放された」と思いましたが、今では母の優しさがわかり「突き放してくれた」と思えます。

なかなか芽が出ず悶々とする日々

――東京ではどのような活動をされていましたか?

 東京では親戚のうちに居候しながら、夜間は居酒屋でアルバイトして、日中は池袋沿線で路上ライブをしたり、デモテープをレコード会社に送るという生活をしていました。

上京して間もない頃、居候先のいとこに連れられて、昔、山崎邦正(現:月亭方正)さんと一緒に「チームゼロ」というコンビを組んでいた軌保 博光(のりやすひろみつ)さんが、映画資金を集めるために自転車で日本一周するといって、その出発式のイベントスタッフとして参加することになりました。

当日、お台場の会場に行ってみると、日本全国から何百人ものファンが来て、みんなが楽しそうで、すぐに友達にもなることもできるアットホームな雰囲気がありました。軌保さんご自身も本当に輝きのある人で、こんな雰囲気を作れる軌保さんの人柄や生き方に感動して、「自分もこがん人間になりたかな」と憧れるようになりました。

そのイベントで元気はもらったものの、路上ライブでは、悲しいくらい誰も聴いてくれずに、すぐに自信を失いました。失意の中、軌保さんのことを思い出し、当時のガラケーを使ってインターネットで検索すると、軌保さんのブログを見つけました。
「今日は〇〇まで〇km走って、こんなことがあった」と日々の行動がブログで綴られているわけです。

軌保さんは、自分の目標に向けて、回りを巻き込みながら、着実に有言実行している。そして周囲の人も、軌保さんの輝きを受けて、輝いて見えたんです。
当時軌保さんは33才で、僕は23才。あんな大人の人ができるのだから、自分にもできるんじゃないか、という心の声が聞こえまして…。

ちょうどその時は年末で、バイト先の忘年会で酔った勢いで「来年春になったら、自転車で日本一周します」と宣言してしまいました。

母に日本一周のことを電話で話すと「あんたが決めたことやけんとやかく言わんけど、絶対に生きときなさいよ」と言われました(笑)。

不安と期待を抱いて自転車全国一周の旅がスタート

▲日本一周の旅の写真(ご本人提供)

――肝っ玉なお母さまですね(笑)。自転車全国一周の旅ですが、いつぐらいに出発されましたか?

 気候が温かくなるのを待って、当時の持ち合わせではママチャリしか買えなかったので、ママチャリを購入し、出発することにしました。それがちょうど2002年3月9日でした。

冬は暖かい場所にいたかったので、春夏は北で過ごすことにして、北上することに決めました。今でも使っているギターを背中に背負って、カゴにリュックサックを乗せて、寝袋や着替えの入ったスポーツバックを後ろの荷台に縛って、最初、東京から埼玉に向かいました。

出発するにあたり、自分なりのルールを決めました。

  • 47都道府県全ての県庁所在地に行って歌うこと
  • 生活費は路上ライブだけで稼ぎ、バイトは一切しないこと
  • ヒッチハイクはせずに自転車だけで移動すること
  • もし途中で日本一周を挫折するようなことがあればいかなる理由があっても故郷の長崎に帰ること

音楽で稼いだ収入は、佐賀の駅前でもらった500円だけ。そんな状態でバイトせずに生活費を稼ぐのはかなりつらいと思いましたが、これで挫折したら音楽の道を諦めるという強い決心で、3,000円の所持金と日本地図を手に東京を後にしました。

その後の人生を大きく変える不思議な出会い

▲稚内に行った時の画像(ご本人提供)

――1年7カ月をかけて旅を続けたということですが、そこで印象的な出会いはありましたか?

 めちゃくちゃありました。それを話し始めると時間が終わってしまうと思いますので、ここでは2つくらい紹介しますね。

1つ目は、旅立ち初日に行った埼玉県浦和市での出来事です。浦和の駅前で自転車を停めて「日本一周の旅してます」という小さな手作りの看板を掲げて、路上ライブを始めようと準備していました。なかなか歌い出す勇気がなくモジモジしていると、近くのスーパーから出てきた3人組の主婦が話しかけてくれて5,000円札をくれました。
まだ、歌も歌っていないのに、所持金が一気に8,000円に増えたわけです。東京ではあれだけ路上ライブをしていて一銭もお金をもらえなかったのに、日本一周しているという事実が人の心を動かすことができた、それに驚きました。

歌を始めると、駅員さんがきて「ここでは歌を歌うことはできないけれど、まだ探せば歌えるところがあると思うよ。日本一周がんばってね」と言われまして。一曲も終わらないうちにその場を立ち去らなくてはいけなくなったわけですけど、駅員さんの温かい言葉に救われました。

日本一周旅行のライブ初日はそんな感じで終わり、近くの公園のベンチの上に寝袋を敷き、人生初めての野宿をしました。寝袋の中で、行く前はあんなに不安で自信がなかったのに、今回の出来事で、必ず見てくれる人がいると思えるようになりました。あの時、寝袋の中で沸々と湧き上がる喜びやワクワクは今でも忘れられません。

――初日から自信が持てる出来事が起きてよかったですね。他にも印象に残る出来事はありましたか?

 実は今の人生を左右する出会いがありました。2002年の秋ごろでした。
生まれて初めて関西にいって、滋賀県大津の駅前で路上ライブをしていると、1人の女性と知り合いになり、その女性の計らいで、クリスマスの日に、京都の市民グループが子どもたちのために劇を公演するということで、そのメンバーの人たちの打ち合わせの場にお邪魔して歌を聴いてもらえることになりました。その女性も、少し生活費の足しになればいいという軽い気持ちで誘ってくれたと思いますが、その後、僕の人生を変える出会いがありました。

その場に当時、大阪でIT企業を経営していた男性がいました。後から聞くと、昔は小さい音楽事務所を抱えていたこともあったそうで、最初、僕の歌を聴く前は懐疑的で、ふんぞり返って聞いていました。しかし、歌を続けていると、前のめりで聴くようになっていました。

その後、演奏が終わると、僕のところにかけつけてきて「音楽的センスがあるとかないとかわからないけど、お前の歌は自分の言葉で真っすぐ伝わってくる」と感想を言いました。それから彼は「これから旅をサポートしてやる」と言って、家に泊めてくれたり、自分が行った先に来てくれたりと支援してくれるようになり、いつしか人生の師匠となりました。

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【講師特別インタビュー】 森 源太さん 後編
悩んでいるのは君だけではない
等身大の歌と言葉が多くの人の心を救う

森さんの人生を辿るインタビューの後編では、旅を終了してからプロになるまでの経緯、現在の主要な活動としている災害復旧ボランティアについてお聞きしました。……

森 源太  もりげんた

シンガーソングライター 災害復旧ボランティア活動家

経営者・元経営者音楽・芸術関係者

夢も無く不登校の高校時代から一転、シンガーソングライターを目指し、ママチャリ日本一周ストリートライブの旅などの挑戦を経てプロとなる。 「今、夢がなくても大丈夫。君は強く愛され、必要とされて生まれた。」と熱く唄い語りかける講演は、中高生の自己肯定感を高める、その一助となる。

プランタイトル

誰もが必要とされている
一人一人の人生が自立した幸せなものであるために

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