人民元切上げ後の中国経済と日本への影響

沈 才彬 しんさいひん

多摩大学大学院客員教授

内 容

●人民元改革を読む4つのキ−ワ−ド
2005年7月21夕、中国人民銀行は、人民元対ドルレ-トで2%切り上げて1ドル=8.11元とする一方、同日より通貨バスケットを参考にする管理フロ-ト制を導入すると発表した。
今回の人民元改革は次の4つの特徴を持っている。

■まずは柔軟性拡大である。管理フロ−ト制の導入によって、1997年アジア通貨危機以降、中国政府が取ってきた事実上の固定相場制が撤廃された。また通貨バスケット制の導入によって、これまで米ドルという単一通貨とリンクしてきた人民元レ−トは、今後米ドルのみならず、ユ−ロ、円、ウォン(韓国)など世界主要通貨とも連動するようになった。しかも人民元レ−トは毎日上下0.3%以内に変動し、適当な時期に変動幅を調整することも可能になる。これまでの硬直的な対ドル固定相場制に比べ、改革後の人民元レ−トは割に柔軟性を持つことは明らかである。

■2つ目の特徴は管理可能である。今回、中国が導入した為替制度は、日米欧主要先進国が一般的に採用している完全なフロ−ト制ではなく、管理フロ−ト制である。「主体的、コントロ−ル可能、漸進的」(周小川中国人民銀行総裁)という三原則の下で、政府は「市場管理人」の役割を果たし、為替相場の安定を狙う。また、急激な為替変動を回避するために、政府の管理手段としては、市場介入および場合によってレ−ト変動幅調整という2つの選択肢が考えられる。

■「投石問路」
中国では「投石問路」という諺がある。石を投げて道を問う、即ち「動静を探る」という意味である。「投石問路」は正に今回の人民元改革の3つ目の特徴である。中国の長期目標としては完全なフロ−ト制への移行であり、不良債権の処理、人民元の兌換可能および資本市場の開放はその前提条件と思われる。金融機関の不良債権問題は依然として深刻な状態にあり、人民元もまだ自由に兌換できず、資本市場も完全な開放に至っていない現在、性急な完全フロ−ト制への移行は甚だ危険である。
中国は完全なフロ−ト制も通貨バスケット制も経験したことがなく、「投石問路」のような試行錯誤が必要である。またアメリカの動静を見極める必要もある。従って、今回の措置はあくまでも為替制度改革の第一歩であり、中国は一気呵成ではなく、段階接近法的に完全なフロ−ト制を目指していく。完全なフロ−ト制への移行は早くても2008年北京オリンピック開催以降になる。

■米中連携
4つ目の特徴は米中連携である。7月21日人民元切り上げ電撃発表前後、米中間の阿うんの呼吸が目立つ。
これまで中国に人民元切り上げを厳しく迫ってきたブッシュ政権は中国の電撃発表の直前、急に強硬姿勢を修正した。中国の発表直後、一番早く反応し人民元改革を肯定的に評価したのもブッシュ政権である。スノ−長官は「国際金融市場の安定に大きく貢献する」と述べ、マクレラン大統領報道官も「中国がより柔軟な為替制度を採用したことに勇気付けられた」と語った。
ブッシュ政権の一連の言動から見れば、人民元切り上げの舞台裏に事実上の米中合意があったことが否定できない。実際、中国当局によれば、電撃発表の一時間前、中国は適当な方式で米国側に通知したという。中国政府の事前通知を受けたのは、香港、マカオ当局を除き、ブッシュ政権は唯一の外国政府である。一見は対立するようだが、水面下では緊密に連携していることはまさに米中関係の特徴とも言える。


●当面は緩やかな元高が続く
今回の元切り上げは中国政府が良いタイミングでやるべきことを実行したと言えるものの、2%という切り上げ幅はあまりにも小さく、マ-ケットが満足する水準ではない。短期的には人民元の上昇圧力はさらに高まるものと予想され、一層の切り上げが避けられない。ただし、1985年プラザ合意後の急激な円高のようなシナリオは考えにくい。中国政府は日本の過去の苦い経験を反面教師にして、経済に大きな打撃を与えないように細心の注意を払いながら、人民元改革を続けていくと見られる。
従って、当面、緩やかな元高が続くものの、年内の切り上げ幅は今回の2%を含めて5%以内にとどまるものと見ていい。しかも来年以降も年間切り上げ幅は5%を超えるものがないと予想される。

●経済は減速し、来年は8%前後へ
元の切り上げによって、過熱経済に一定の抑制効果が期待される。中国国家統計局05年7月20日の発表によれば、同年上半期の経済成長率は9.5%にのぼる。第1四半期9.4%、第2四半期9.6%の実績を見れば、マクロコントロ-ル政策と金融引き締め政策の導入にもかかわらず、過熱経済は依然として収まらない。
高成長の牽引役の1つは輸出の高い伸びであり、輸出と貿易黒字の急増は、国内には過熱経済の抑制に逆効果をもたらし、国際には欧米諸国の強い反発も招き、貿易摩擦が多発している。
7月21日の元切り上げ電撃発表の背景には、欧米圧力の緩和と過熱経済の抑制という中国政府の思惑が働いたことは確かである。今後、輸出の鈍化は予想され、05年下半期の伸び率は20%台へ、来年さらに10%台へ低下する可能性が高い。元切り上げによる過熱経済の抑制効果がある程度期待され、緩やかな経済減速が予想される。05年通年のGDP成長率は9.0%前後へ、06年さらに8%台に減速する確率が高い。

●輸出・雇用に打撃、企業競争力アップの起爆剤にも
中国の経済紙『中国経営報』によれば、当初、政府内部では5%の切り上げも検討された。だが、一部の経済学者は政府上層部の指示を受け、約2カ月かけて調査が行われた結果、5%切り上げの場合、輸出、雇用の減少などで国内総生産(GDP)の伸びが1.4ポイント低下し、消費者物価指数(CPI)も1.2ポイント低下することが判明し、「マイナス効果が大き過ぎ、デフレの引き金となる恐れがある」とする結論に達した。中央執行部はその調査結果を受け、国内経済への深刻な影響を懸念し、最終的に2%の小幅に決まったという。
しかし、最初は2%の小幅とはいえ、緩やかな元高が続くならば、年内5%、06年末までにさらに5%の切り上げもあり得る。輸出、雇用への打撃は決して看過できない。
元切り上げは低コスト構造に安住してきた輸出企業にとって大きな打撃を与え、国際競争力の低下を招くことは確かだ。しかし、その打撃は一時的なものであり、元切り上げをバネにコスト削減や技術革新などの自助努力をすれば、中国企業の国際競争力アップの起爆剤にもなり得る。

●中国の不動産価格、株価、ファンドはどう動くか
元切り上げで不動産価格の上昇になりにくい。ここ数年、不動産分野への投資は過熱状態が続き、不動産価格(特に北京、上海)が高騰している。
一方、株式市場は人民元切り上げのプラス影響を受ける。ここ数年、中国の株価の低迷が続き、05年6月6日に上海証券取引所の株価指数は10年ぶりに安値を更新した。元切り上げを契機に、一部の資金は不動産分野から株式市場にシフトし、株価は上向きに転じる確率が高い。また、2%の切り上げは不十分なものであり、暫く緩やかな元高傾向が続くと見られる。従って、外国投資家は中国の株を購入した場合、元高と株価の上昇という二重の楽しみが期待されそうである。同様な理由で、中国ファンドの利益率が拡大する可能性も高い。

●日本の消費者を直撃
人民元2%の切り上げ発表直後、日本政府は「日本経済に影響がない」とコメントを発表したが、そうとは思わない。緩やかな元高が続けばその影響は徐々に広がるからである。
まず、人民元切り上げは日本の消費者を直撃する。2003年1月、NHK番組「中国は脅威かパ-トナか」に出演した際、視聴者から番組に多くの手紙やメ−ルが届き、安い中国製品は生産者の立場にある日本企業にとって「脅威」のように見える一方、一般消費者にとっては「神風」のような存在であることがわかった。
良質・安価な中国製品は日本に定着し、庶民生活の不可欠の一部となっている。しかし、人民元の切り上げによって、輸入業者はコスト増加分を消費者に転嫁する可能性が高く、庶民生活を直撃しかねない。一番ショックを受けるのは、100円ショップであろう。日本の100円ショップは安い中国製品の象徴的な存在であり、扱い商品の7割以上が中国製である。元高傾向が続けば(例えば、今後数年間人民元20%切り上げあった場合)、100円ショップの存続は難しくなり、庶民生活にも大きな影響を及ぼしかねない。

●為替リスクと「分散リスク」
元切り上げで一時的には中国企業の競争力を削ぐ効果があるが、日本企業は手放しに楽観できるものではない。コスト削減と技術革新などの自助努力によって、切り上げショックを乗り越え、中国企業の国際競争力アップは可能になる。日本企業にとって、怖い競争相手の出現は遠くないと思う。
また、中国の通貨政策が管理フロ-ト制への変更によって、円相場は元相場に振られる場面が増え、日本企業は為替リスクの増大に直面せざるを得ない。
さらに、多くの日本企業は既に中国に進出しており、元切り上げは輸出志向型日系企業にとってはマイナス要素となるのは間違いない。一部の日系企業はリスク分散の観点から、一極集中を回避し生産拠点を中国からベトナムやインドなどに移転しょうと考えている。ただし、生産拠点の移転は時間やコストがかかり、移転先にもリスクがない訳でもない。「リスク分散」を考える日本企業はこうした「分散リスク」も覚悟しなければならない。

●日本は中国企業のビジネス現場にされる
昨年末に米IBMのパソコン事業は中国のPCメ-カ-最大手の聯想集団に買収された。最近、中国海洋石油(CNOOC)は185億ドルで米石油大手ユノカルを買収する提案を発表し、アメリカ政財界に大きなショックを与えた。こうした「チャイナショック」は日本でも起き得る。実際、2002年に日本の中堅印刷メ-カ-の秋山印刷機械、2004年に歴史がある工作機械メ-カ-の池貝は相次いで上海電気に買収された。05年11月、私が上海電気を訪問した際、同社の幹部は「中国のシ-メンスや中国の三菱重工を目指している。できるものなら世界トップクラスの電機メーカーさえ買収したい」という抱負を明らかにした。

人民元切り上げによる通貨価値の値上がりで、中国企業は海外進出を加速させ、日本企業を含む外国企業を買収するM&Aが増えるに違いない。
これまで日本は中国をビジネス現場とすることに慣れてきたが、中国企業のビジネス現場にされることには馴染みがない。かつて経験したことがない新たな「チャイナショック」にどう対応するかが大きな課題となる。

●円と元の主導権争いが懸念

長いタイムスパンで見れば、人民元国際化の「序章」と位置づけられる今回の切り上げは、米ドルを基軸とする国際通貨体制の「終章」かも知れない。中国の台頭と日本の影響力の低下を考えれば、将来的には人民元は日本円を脅かす存在になることも十分有り得る。特に、「アジア共同体」構想は実現に向かう現在、アジア基軸通貨の問題も浮上する。その基軸通貨をめぐる円と元の主導権争いが懸念される。アジアの将来を考えれば、円でも元でもなく、円と元を含むアジア共通通貨の構築は各国の利益になる。

●中国ダイナミズムに着眼 ビジネス戦略構築が急務
勿論、人民元改革をマイナスばかりに受け止める必要がない。実際、日本企業にとって人民元切り上げに多くのビジネスチャンスも秘めている。元切り上げで中国の通貨価値が上がり、消費者の購買力が高くなり、市場のパイは益々大きくなる。結果的には日本製品の対中輸出増、中国人観光客と対日投資の増加に繋がり、日本経済の活性化にプラス効果が期待される。

特に人民元切り上げによる観光分野への波及効果が注目される。
2004年、中国の外国出国者人数は2885万人にのぼり、日本の1685万人より1200万人も多い。05年1-6月、この人数はさらに前年同期比9.5%増の1460万人となった。人民元切り上げによって、中国の観光ブ-ムはさらに熱を上げ、5000万人とも言われる中国の富裕層をタ-ゲットとする各国の争奪戦は益々熾烈となる。
いかにより多くの中国人観光客を日本に誘致するかが大きな課題となる。

日本企業は中国ダイナミズムに着眼し、長期的な視野に立つビジネス戦略を構築すべきである。

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